YELLOW WASP

 1989年5月、千葉の浦安で暴走族同士の抗争が起き、1人が死亡した。
 新聞の片隅の小さな記事で、僕はこの事件を知った。よくある事件のひとつだと、さほど気にとめることもなかった。だが事件の続報で、殺人を犯した少年が残留孤児二世と知り、なぜか心がざわついた。
 逮捕された少年は、鑑別所や裁判所をたらい回しにされる。検察は傷害致死を、弁護士は正当防衛を主張した。僕は新聞で事件を追った。
 少年は幼い頃、日本人の母親と共にこの国へ来て、様々な差別を体験する。
「変な日本語しゃべるな」「中国へ帰れ」「おまえらくせえんだよ」
 中国と日本の間に挟まれてアイデンティティを失った少年は、同じ境遇の仲間たちと肩を寄せ合い、いつしか暴走行為へ走る。そんな中、事件は不幸にして起きた。
 判決は何度もひるがえり、ようやく10ヶ月後、少年は無罪になった。少年の痛みや慟哭が僕の中の何かと同化し、破裂するように歌が生まれた。タイトルを〈YELLOW WASP〉とした。

 「WASP(ワスプ)」とは、「ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント」の略で、いわば白人の中で支配階級と言われる人種のこと。「黄色いワスプ」とは、僕たち日本人のことだ。
 内容的に大手レコード会社からリリースできる可能性はなかった。だが僕はどうしてもこの歌を伝えたかった。カセットテープでリリースし、歌える限りステージで歌った。
 新聞の、とりわけ社会面で歌が取り上げられた。僕にはそれが意外だった。僕は少年の痛みを歌いたかっただけで、社会的に何かを訴えようとしたのではなかったからだ。
 歌は少年の元へ届いた。彼はこう言ったという。
「これは俺たちの歌だ」
 僕にはそれが心から嬉しかった。彼を勇気づけることができたと知り、歌を作って本当によかったと思った。

 だが、どうしても決着をつけなければいけないことがあった。この歌を、正式にレコード会社からリリースしたいと思ったのだ。
 1994年、僕はこの歌をもう一度レコーディングした。すると、レコード会社のある部署のスタッフが飛んで来た。レコード会社と契約してリリースする限り、避けて通れないことがある。「自主規制」というやつだ。差別用語に始まり、クレームが来そうな言葉や表現は、その段階ですべて注意深く削除される。予想はしていたが、スタッフの態度はそれ以上に強硬だった。説明も何もなく、ただ「やめろ」と突っぱねられた。はらわたが煮えくりかえる思いだった。だが結局、マスターテープは倉庫の隅にしまい込まれた。
 6年が過ぎた。その間、僕はこの歌をほとんど歌うことはなかった。それでも、ファンの人たちから「もう一度リリースしてほしい」との便りは届き続けた。

 去年のツアーの初日、僕はひさしぶりに〈YELLOW WASP〉を歌った。確かめてみたかった。この歌が今も生命力を持っているか、自分にとって錆びついていないか。歌いながら、言葉やメロディが客席に突き刺さっていくのを感じた。もう一度歌いたい。そう痛切に思った。
 所属プロダクション主導のインディーズレーベルからリリースすることにした。ここならつまらない自主規制など一切ない。表現したいことをそのまま伝えられる。

歌は、誰かを勇気づけることができる素晴らしい表現手段だ。死のうとする人を思いとどめさせるパワーさえ持っている。だが、腰抜けの半端な表現が人に伝わるはずがない。心の底から歌わなければ、それは歌じゃない。僕はそう信じている。





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