ソウルメイトとの出会い 07.06.2000


 今年のツアー「LOOKING FOR SOULMATES」が始まった。このツアーは、僕のソウルメイトと呼べるミュージシャンたちとひと夜限りのコラボレーションをくり広げ、そして客席から僕を応援してくれる全国のソウルメイトに会いに行く旅だ。
 旅はまだ始まったばかりだ。今年は後半にかけて全国の街を訪れるつもりでいる。

 このツアーの始まりとほぼ時を同じくして、僕は3人のソウルメイトと出会う幸運に恵まれた。

 きっかけは3年ほど前にさかのぼる。まだRED & BLACKがオープンするずっと前、「きらちゃんの小屋」という、僕を応援してくれるページが生まれた。まだインターネットを始めたばかりの頃だった僕は、嬉しくてそのページをよくのぞきに行った。
 ある日そこに、間接的に僕に宛てたある男からのメールが届いた。そこから彼のページへリンクしてあり、何気なくそこへ向かった。「. ...__.WO+RD.___... .」と題されたページを見て、僕はぶっ飛んだ。ホームページというフィールドで、これだけのことができるんだというすごい可能性を見せつけられた。そのデザインワークにも魅せられた。
 「こいつに会ってみたい。こいつと仕事をしたい」と、すぐに思った。だが残念なことに当時の僕はまだリリースの予定もなく、ちゅうぶらりんの状態にいた。それでも彼の名前は記憶に刻まれた。次に僕がCDをリリースする時は、絶対に彼にデザインを頼もうと決めた。
 それから1年ほどたった頃、その彼が佐野元春さんのCDデザインをやったという話を聞いた。僕は咄嗟に「しまった! 先を越された!」と感じた。無性にくやしかった。
 その後、ようやく僕も動き始め、リリースの予定が立ってきた。彼に会いたいと思った。そして去年のクリスマス、Shibuya NESTの終演後の会場で彼、小山雅嗣君と初めての握手をした。
 彼とは不思議な因縁もあった。僕のアマチュア時代からの友人のバンドが、89年にリリースしたマキシシングルをデザインしたのが彼だった。僕はそのことを知らないまま、そのシングルを今も持っていた。その上、当時そのバンドのライヴの打ち上げで、僕は彼に紹介されていたという。また、このRED & BLACKからリンクしているライターの山下柚実さんのページデザインを彼が担当しているという偶然もあった。名字が一緒、まあそれもちょっとした偶然だ。
 彼にマキシシングルのデザインを正式に依頼し、食事をしながらイメージのやり取りをした。
 6月9日、大宮の楽屋に彼が訪ねてきて、4パターンのジャケットデザインがプレゼンされた。鏡の前のテーブルにそれを並べて見る。しばらく声が出なかった。予想以上のものがそこにあった。
 人が人と出会う時、ごくたまに2人の間に火花が散ることがある。何かがしっかりとマッチングする瞬間、互いが求め合っているものがまっすぐにぶつかり合う瞬間、そんな時、バチッと音がする。大宮の楽屋で、僕はそれを感じた。
 今までの僕はジャケットデザインに関して色々と口を挟む、どちらかといえばデザイナー泣かせのミュージシャンだった。だが今回に関しては、もう何も言うことはなかった。僕の作り上げた音楽と彼のデザインが、大きなうねりを作っていた。それは歌のアレンジが成功した時の感触と同じだ。
 その後、メールで何度かやりとりをし、先日、ついにジャケットが完成した。
 彼は今後、ファンクラブの会報のデザインもやってくれることになった。彼とのコラボレーションは、これからも続くだろう。


 今年の始めにレコーディングした3曲をリリースするに当たって、最後の作業としてマスタリングが残っていた。マスタリングとは、全体のレベルのバランスを取ることや曲の並びを決めて曲間の秒数を決めたりすることも大事な作業だが、各曲の、そして全体のイメージを最終決定する重要な作業だ。
 誰に依頼するか決めあぐねていた時、スタッフからある男を紹介された。彼は自らもCDをリリースし、プロデュースもつとめるマルチな活動をしているという。一度会ってみたくて、二子玉川園にある彼のプライベートスタジオを訪ねた。分厚いドアの向こうから僕を迎えてくれた穴井正和君は、ごついイメージと繊細な感性を兼ね備えた風貌だった。話を聞いていると、彼は高校時代、僕の歌をよく聴いてくれていたそうだ。
「僕の歌を聴いてたのって、クラスに何人くらいいたの?」
「2人でした。いやあ、孤立してましたよ」
 彼の意見としては、「Pro Tools」でレコーディングされた今回の音を、一度アナログを通すことで深みを出したいという。彼に任せることに何の問題もなかった。
 後日、原宿のスタジオと彼のスタジオを使い、マスタリングの作業が行われた。通常、レコーディングのトラックダウンを終えたところで、一応の完成は見えている。それを踏まえた上に仕上げられたサウンドは、今まで以上に深く、もっと細やかで、もっと艶やかで、そして一歩耳へ近づいたようなサウンドになった。彼の仕事を経て、初めて歌が産声をあげた。


 「卓ちゃん、梅津和時さんって憶えてる?」
「憶えてるも何も」
 僕はデビュー当時、RCサクセションと活動を共にしていた梅津さんと、何度かイベントで同じステージに立ったことがある。「立った」といっても、オープニングアクトで20分程度のステージをやっただけだが。
「こないだ梅津さんと会う機会があって、お友達になったんだけど、梅津さん、卓ちゃんのこと憶えてて、機会があったら一緒にやりましょうって言ってくれてたよ」
「ほ、ほんとかあ !?」
 と、これが最初のきっかけだった。僕の友人の彫刻家の女房からそんな電話をもらい、ついでにメールアドレスを聞いて、ダメモトで梅津さんにメールを送った。
「僕はこれからツアーを始めるのですが、もしよかったらどこかで出演していただけませんか?」
 数日後、「よろこんで」との返事をいただいた。ガッツポーズで喜んだのはいいが、いざ実現するとなると、一体どんな歌をどんな風にやっていいのかさっぱり見当がつかない。梅津さんといえば、ジャズからロック、民族音楽まで幅広く活動している人だ。僕の歌との接点がどこにあるのか見えてこない。ずいぶん迷った末に8曲ほどの歌を送り、一度リハーサルすることにした。
 短いリハーサルを挟み、次はもう本番だ。僕はひさしぶりに緊張していた。だが客席から響いてくるいつもの野太い声が、それを和らげてくれる。
 ステージに梅津さんを招き入れる。リハーサルをしたとはいえ、本番となるとお互いに違うテンションやノリが生まれる。相手がどう出るか分からない分ワクワクする。出会い頭のぶつかりが一瞬輝けば、そのステージはすばらしいものになる。だが間合いを間違えば、すれ違ったままで終わってしまうこともある。
 これは僕の解釈だが、ジャズを基調としている人は、野球でいうストレートはあまり投げない。お互いのプレイの中でカーブやフォークを投げ合うことで、緊張と相乗効果を楽しむ。だがいかんせん、僕はストレートしか投げられない。せいぜい早いか遅いかの落差しかない。それを感じ取った梅津さんは、きっと「ああ、ストレートね。OK、任せといて」という風に僕の歌に色をつけてくれる。間奏の小節数などは一応決めてはいたんだが、リハーサル通りにはいかない。僕は梅津さんのフレーズを聴きながら、どこでうねるか、どこで着地するのかを感じ取りながら歌う。その1秒1秒が濃い。
 圧巻は〈ついてねえや〉だった。梅津さんはアルトとソプラノをふたつくわえて吹きまくる。客席から喝采とどよめきが沸きあがる。僕ももちろん大興奮でしびれた。
 わずか4曲の登場だったが、僕にはすごくエキサイティングな時間だった。これだからライヴはやめられない。
 終演後、梅津さんが「また一緒にやりたいね」と言ってくれた。梅津さんをソウルメイトと呼ぶのはおこがましいかもしれないが、僕はあのステージの上で音楽の素晴らしさを心から感じていた。いつかどこかのステージで、また一緒に音を出したい。


 面白いもので、テーブルに向かって頭を抱え、ああでもないこうでもないと試行錯誤や実験をくり返している時には、こんな出会いは訪れない。頭と一緒に体を使い、動くことで出会いは生まれる。そんなこと、ずっと前から分かってはいるんだが。
 もうひとつ感じたことがある。この3人に共通することは、僕が17年間音楽をやり続けてきた中で、すでにもう僕の音楽と出会ってくれていたということだ。それがあったからこそ、こうして今本当の意味で出会うことができた。やり続けていて本当によかったと思う。そしてこれからもこんな出会いをくり返しながら、僕は自分をかき回し、変化していきたいと思う。すごく楽しみだ。


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(C)2000 Takuji Oyama