「表現と自主規制の狭間で」


この文章は、RED & BLACK Pre-Opening Versionの時期に
掲載された卓治のエッセイからの抜粋です。

 言葉だけで自分を表現することは、とても難しい。
 小さな誤解が摩擦を生んだり、不特定多数の人を傷つけたり、関係を壊してしまうことさえある。言葉をメロディに乗せることで音楽を作る身として、自戒の念を込めてのことだ。
 以前こんなことがあった。〈談合坂パーキングエリア〉という歌で、「2人は脱走した死刑囚みたいだ」という歌詞を書いた。歌を聴いたスタッフがこう言った。
「そんなことないとは思うけど、もし死刑囚がこの歌を聴いたら傷つくかもしれない」
 僕の初期の歌には、放送禁止になった歌が何曲もある。こんな言葉が放送コードに引っかかったためだ。
 〈NO GOOD!〉の「道ばたの乞食を見て」「自閉症患者ウォーク・マン」。
 〈土曜の夜の小さな反乱〉の「大変だみんな狂ってる」。
 確信犯的にその言葉を選んだのなら、例え誰かが傷ついたとしても、自分を納得させることはできる。だが一番恐ろしいのは、無意識に使った言葉が誰かを傷つけることだ。その傷ついた人にどんなに謝ったとしても、僕の罪がぬぐわれることはない。
 〈談合坂パーキングエリア〉の歌詞は、「2人は脱走した罪人みたいだ」に変更した。変更したことで歌の意味が損なわれたわけじゃない。
 しかし、組織がやる自主規制というものは、まったく別の話だ。
 忌野清志郎さんのパンク・アレンジの〈君が代〉が発売中止になり、インディーズでの発売になるという。
 以前、清志郎さんがリリースしたアルバム《カバーズ》の中に、原子力発電所のことに触れた歌があり、発売中止騒ぎになったことがあった。僕も音楽雑誌からコメントを求められたりしたが、その時は「なんか騒ぎになってるなあ」と一歩引いていた。アルバムを聴くこともなかった。
 それからしばらくたって偶然聴く機会があった。僕は腹を抱えて笑った。抱腹絶倒のギャグだし、極上のカバー(替え歌)だ。発売中止の騒ぎになったということはつまり、その歌を聴いてむかついた人間と、むかついた人間を恐れる人間がいたということだ。今回もまったく同じだ。
 僕が憤りを感じるのは、むかついた人間ではなく、それを恐れる人間の方だ。 清志郎さんの持つ独特の鋭い嗅覚が〈君が代〉を選ばせた。それはきっと「昼間のパパはちょっと違う」と歌った感覚と同じはずだ。他意などあるはずもない。その歌うという意志を、「社会的影響が… …」などと逃げ腰になって踏みにじる組織のふがいなさ。憤りを通り越して失笑すらしてしまう。

 僕も以前、同じことを体験した。〈いつか河を越えて〉をレコーディングしている最中のことだ。

        河向こうのスモッグ越しに
        そびえるビルの頭を
        子供の頃から何度も
        数えながら育った
        ハイウェイでつながった
        蜘蛛の巣のような橋を
        週に1度は渡り
        同じ数だけ戻った
        ここでは誰もが口癖のように
        こうつぶやいている
        いつか河を越えて


 突然、組織からクレームがついた。歌詞の「河向こう」と「いつか河を越えて」のふたつの言葉とタイトルを「変えろ。でなければこの歌をレコーディングすることをやめろ」と高飛車に言われた。何のことかさっぱり理解できなかった。
 「河向こう」という言葉は、昔から自主規制のリストに載っていた。それは部落差別につながる言葉だった。知らなかった。知らなかったから、そのことを勉強した。その上で、この歌が部落差別を意図した歌じゃないことを主張した。主張ははなから受け入れられなかった。
「内容の問題じゃないんだよ。こっちが恐いんだよ」
 組織の人間が、自分の頬を人差し指で斜めに切りながら言った。
 自由な表現が踏みにじられるジレンマに、はらわたが煮えくり返る思いをしながらも、僕は選択を迫られた。歌詞を変更するか、この歌をレコーディングしないか。
 「河向こう」を「向こう岸」に変えることにした。「河向こう」と言われて傷つく人がいる限り、使うべきではないし、「向こう岸」に変えても僕の意図は伝わる。だが「いつか河を越えて」を変えるわけにはいかなかった。
 そして。
 僕はこの歌を〈Passing〉と題し、「いつか河を越えて」の部分を英語でごまかした。そういう結論を出した自分を嫌悪した。だがこうも思った。レコードで歌えなくても、ライヴでなら最初の歌詞のまま歌える。ライヴでなら、僕が本当に伝えたかったことを直接伝えることができる。
 この歌をリリースして10年以上たつ。今ではこの歌は、僕とリスナーにとっての大切な1曲になっている。
 最近では、テレビでも「河向こう」という言葉を使っている。僕はそれを聞くたびにドキリとする。
 それは「また問題になったりして」という不安ではなく、今でもその言葉で傷つく人がいるかもしれないのに、知らずに使うその無神経さだ。

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