Next One 03.09.2000


 先日のこと。渋谷のセンター街を歩いていたら、若い男が数人、通行人の行く手をはばむようにティッシュを配っている。誰かれかまわずといった調子でティッシュを強引に握らせていく、まあいつもの風景だ。ところが僕が通りかかると、1人の男が僕の顔をチラリと見て、スッと僕をやりすごした。歩き過ぎながら、何だか複雑な心境だ。
 ティッシュを出されても面倒だからいつも受け取りはしないが、いざ僕だけ渡されないとなると、なんの広告のティッシュだったのか、気になってしょうがない。カラオケ? ローン会社? それともエッチな店? 少なくともその男は、僕にティッシュを渡してもしょうがないと踏んだわけだ。うーん……。僕は歩きながらショーウィンドウに写った自分をふと見る。僕はある種のターゲットやマーケットから、すでに外れた存在なのかな。
 齢42にして、まだ歳を取ったという自覚はない。それどころか精神的にはまだ成長過程だと思っている。やることも学ぶことも山ほど残っている。ただ以前ほど愚かな遠回りや不必要な空回りはしなくなったとは思うけれど。
 10代や20代の頃は、気持ちが前のめりすぎて腰も定まっていなかったから、よく転んだものだ。それに比べれば、今はある程度腰も決まってきているし、重心も安定しているから、ちょっとやそっとじゃ転ばない。
 でもこれって下手すると、前のめりっていうより、前かがみだよなあ……。

 新聞にこんな文章があった。
「大人の文化を生みだすことを迫られていると思う。もし大人の実存が満たされているならば、子供たちの神経も病むことなく、ゆったりと落ち着いてくるはずだから(宮内勝典氏)」
 テレビで、作詞家の阿久悠氏が19の326氏との対談で同じようなことを話していた。
「すごい大人がいなければいけないんだ。その大人を排除するために、子供はがんばるんだから」
 最近のニュースや世の中を見るにつけ、この言葉はリアリティを持って響く。
 だが大人たちが、かつての自分がろくでもないやつだったってことを都合よく忘れて、若い世代に対して舌打ちするのは卑怯だ。
 街角で、昔の「ひょうきん族」のアダモちゃんみたいなメイク(例えがちょっと古いか)の女の子たちとすれ違うとギョッとするが、僕はそのたびに、昔自分が大人とすれ違った時にギョッとされたことを思い出す。その時の僕の気持ちは、大人に対する宣戦布告だった。ボブ・ディランが「時代は変わる」と歌ったように、僕も上の世代に対して「No!」を振りかざし、「自分はこれでいいのか? いや、いいんだ」という「Yes」のための自問自答をくり返してきた。ぶつかる大人がいたからこそファイトもわいたし、継続する力にもなった。
 “自問自答”のための表現手段が時と共に変わっていくことは、当たり前のことだ。そんな不器用なやり方を、変に茶化したり妙に分かったふりで持ち上げたりする大人にだけはなりたくない。僕には他にやることがある。それは“すごい大人”になることだ。そのために、まだたくさんのハードルを越えなければいけない。

 ここのところ、ベテランと称されるアーティストたちのベストアルバムが、軒並みといっていいほどリリースされている。僕はその中の何人かのアーティストの歌を、当時熱狂しながら聴き、その一時期を時代の匂いと共に共有し、マインドを吸収してきた。
 ベストアルバムとは、今もう一度、そのアーティストの軌跡を歌でたどってみる作業だ。僕にはそれらのアルバムが、「挑戦」と「成功」と「変化」と「停滞」の赤裸々なまでの記録に聞こえてしまった。
 ベストアルバムを聴き終わっていつも思うことは、「そして今は?」ということだ。そのアーティストの“今”が輝いていなければ、アルバム自体が、過去の遺物で食いつなぐ金儲けになりはてる。
 アルバムの中には、時を越えて輝きを失っていない素晴らしい歌があった。ただ残念なことに、それが初期の歌である場合が多かった。だが同業者として予想できるのだが、きっと彼らはこう思っているはずだ。
「そう思われるのは最初から知っている。そう思われても構わない。大事なのはネクストワンだ」
 聴き終わってもうひとつ思ったことがある。
「で、おまえの歌はどうなんだ?」
 もし僕がベストアルバムを出したら、やはり同じような感想が返ってくるだろう。そして僕も同じように思うだろう。大事なのは、ネクストワンだ。
 過去をふりかえることに意味なんかない。“今”の自分をどう表現するか、それだけがテーマだ。
 今年に入ってレコーディングした曲は、“今”の僕を表現できていると考えた3曲に絞りこんだ。〈FILM GIRL〉でもない、〈NO GOOD!〉でもない、〈傷だらけの天使〉でもない3曲だ。僕はデビュー当時の25歳じゃない。腰が定まっていないガキでもない。ただあの時のスピリットを忘れていない、すごい大人になろうとしている42歳だ。

 そして今、僕が探し続けているもの、それは“変わらないもの”“越えるもの”だ。
 人によって、“素敵”もそれぞれ、“綺麗”もそれぞれ、“哀しい”も“苦しい”もみんな違っていて当たり前だ。それを越えた“変わらない”ものを見つけたいと思う。
 実はそれは、とてもシンプルなものなんじゃないか、手に取れるほど身近なもの、ふと懐かしいもの、血にこめられたもの、そして温かいものなんじゃないかと、最近は思い始めている。そんなものを歌にできたら、どんなにいいだろう。
 また、こうも思う。人の心は天気のようなものだ。晴天の日もあれば、どんよりとした曇りも、風の日も、どしゃ降りの日もある。その全部を歌にしたい。全部がどしゃ降りじゃ哀しすぎる。毎日が晴天なんて、自分の心を隠してる。痛みをさらけ出すことは恥ずかしいことじゃない。愚鈍なほど自分に実直に歌っていけば、それはいつか“変わらないもの”に近づいていくはずだ。
 歌に限ったことじゃない。自分が発見した美しいものを、力一杯自分のやり方で表現する。それが自分を知り、本当の大人になるための、たったひとつのやり方だ。僕はそう信じる。

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(C)2000 Takuji Oyama