nov 04.24.2003


 確か、1995年6月のことだったと思う。僕は女友達に頼まれて、彼女の荷物を車に積んで埼玉へ向けて運転していた。
 彼女曰く、「これから会いに行く人、パソコンのことがすごくくわしいから、色々聞いてみたら?」
 その少し前、僕は愛用していたワープロをColor Classic 2というパソコンに買い換えたんだが、漢字変換が遅くてワープロとして使い物にならず、まるで仕事にならなかった。ハードディスクの中をのぞいみると、変なアイコンがたくさん並んでいて、適当に触っていたら急に動かなくなったり、爆弾のマークが表示されたり。
 当時はまだ、パソコンが今みたいに普及していなくて、まだまだマニアックなものだった。「インターネット」という言葉は、遠い海の向こうから微かに聞こえていた程度だ。
 待ち合わせた場所にいた男は、僕の顔を見て、妙な表情をした。
 後で聞いた話なんだが、彼はこう思ったそうだ。
「あ、小山卓治だ。……何で小山卓治が女の子のパシリやってんだよ?」
 それが、novこと松崎信彦君との出会いだった。
 彼はカメラマンとして、80年代中盤、アリーナ37という雑誌の取材で僕の撮影をしたことがあったそうだ。僕はすっかり忘れていたんだが。彼の僕に対しての第一印象はこうだったという。
「何だかブスッとして、嫌な野郎だな」
 近くの喫茶店に入り、novにパソコンのことを色々聞いた。丁寧に教えてくれるんだが、さっぱり意味が分からない。で、また質問する。答えてくれる。やっぱりよく分かんない。
 それ以来、僕はたまにnovとお茶を飲んだり食事をしたりするようになった。

 96年になり、僕はようやくインターネットの世界に足を踏み入れた。ほとんどの設定をnovにやってもらった。それからは、何かというと彼にメールを出しては質問をぶつけた。システムのことなどをずいぶん教わった。「何が分からないかも分からない」という状態からは、少しずつ脱することができた。
 僕が使っているソフトがバージョンアップすると、novは必ずメールで教えてくれ、アップデータや面白いソフトなどをメールに添付して送ってくれたりもした。システムがバージョンアップした時は、どんなバグ(プログラムの不具合)があるのかを報告してくれた。

 僕は今までに3度パソコンを買い換えたのだが、指南役はもちろんnov。「メシおごるからさ、ちょっと新宿までつき合ってくれない?」なんて言って、いつも来てもらった。そのまま僕の部屋に運びこみ、セッティング。
 彼は「ついでに」なんて言いながら、変なバッタモンのソフトを持ってきては、「これ、いいっすよー!」なんて僕のパソコンにインストールする。たまにパソコンが動かなくなったりすると、「やっぱ駄目だったかあ」なんて笑ってた。
「ちょっとやめてくれよ! 俺はただワープロが打てて、ネットができりゃいいんだよお!」

 彼がどうしても使えと勧めたのが、「PostPet」という動物がメールを配達するソフトだった。40男がどうかとも思ったが、ついつい面白くてずっと使っていた。novのうちの猫の名前がポコリン、僕のうちのクマの名前がぷーすけ。
 日々のメールでのやり取りの中でも、いろんな話をした。novはLPレコードのコレクターでもあり、マニア垂涎のレコードを外国のサイトから買ったりしていた。60年代辺りのロックにはめっぽうくわしく、僕の方が教わることも多かった。他にも文学の話、写真の話などもよくしたっけ。

 99年の春。「ホームページを作りたいんだけど」とnovに相談を持ちかけ、その方面でもくわしかった彼を無理矢理プロジェクトに引っ張りこんだ。僕の部屋に彼を招いて、計画を立てたりページを作ったりした。
 8月に「RED & BLACK」がプレオープンしてからは、彼には更新に加え、管理の仕事もやってもらうことになった。
 メールでデータをやり取りし、大きいデータはMOを郵送し合い、ほぼ月に1回の更新の時には、僕の部屋でビールを飲みながら作業した。その後は必ず飲みに行き、「次は何を更新しようか」なんて話すのが常だった。

 2000年に入ると、公式メーリングリスト「aspirin-ml」が始まり、その管理も彼に頼んだ。パソコン初心者も多かったメンバーに対し、彼は丁寧に対応してくれた。
 その頃から、いわゆるファンサイトというのも生まれ始め、彼はそんなサイトをこまめに回り、彼らに運営の指針を示し、時に穏やかにダメ出しをし、僕やスタッフには、オフィシャルとしてのあり方や発言の仕方を教えてくれた。
 その時期、僕はデザイナーのコヤマ君と知り合い、ホームページを本格的に始動することを決めた。それからは、nov、コヤマ君、僕とスタッフで何度もミーティングを繰りかえした。それぞれがプロとしてどう関わるか、僕たちはお互いの距離感を狭めていきながら、「日本で一番かっこいいホームページを作ろうぜ!」を合い言葉に進んでいった。
 2001年2月14日、僕たちの絆の結晶のような、新生「RED & BLACK」は生まれた。

 翌年の10月、novはしばらく入院した。僕が知る限り2度目の入院だった。病院へ見舞いに行くと、彼は外出許可証をピラピラと見せ、心配する僕をよそに、近くの喫茶店へ行こうと言った。

 ある日、僕のパソコンが急にうなり始め、慌ててnovに連絡した。さっそく来てくれ、パソコンのボディを開けて点検する。僕のパソコンのふたを開けるのは、いつもnovの仕事だった。僕はいつも彼の横で恐る恐るのぞき込んでいただけだった。開けてみたら中が埃だらけで、それを綺麗に掃除したら直ってしまった。novに大笑いされた。

 去年の末、僕のアルバムレコーディングのプロジェクトが始まった。今までと違うアプローチでビジュアルを表現したい、そう考えてカメラマンを誰にするか思案していた時、灯台もと暗し、という感じでnovがいることに気づいた。彼にはホームページの仕事をやってもらっているイメージが強すぎて、本職がカメラマンだということが、つい頭から抜けていた。
 彼が撮影した写真を、コヤマ君がデザインした。それは、まさに今までとはまるで違う作品に仕上がった。

 今年の3月21日の僕の20周年パーティーのため、限定サイトを作ることになり、その作業を進行している時、novが緊急入院したという知らせが飛びこんだ。しかし病院からは、いつもと変わらない調子のメールが届いていた。
 パーティー当日。開場前に、ひょっこりnovが現れた。「手術が延期になっちゃったもんで」なんて笑う彼に、「何だよ。心配して損した」なんて僕たちも笑った。
 novに、僕とコヤマ君が並んだ写真などを撮ってもらった。彼はいつも表に出ることを嫌ったから、彼と一緒の写真は撮らなかった。夕方、「病院の晩飯の時間なんで」と言って、彼は会場を出た。

 4月13日早朝、novは逝った。

 その夜、僕は彼のことをメーリングリストに報告した。全国から追悼のメールが殺到した。
 ネット上での関係というのは、ある意味クールなものだ。顔が見えない分、お互いに立ち入らない領域がある。しかし届いたメールには、彼の死を心から悼むものがたくさんあった。

 ジョン・レノンが流れる告別式。「aspirin-ml」やファンの人から花が届き、電報が届き、メーリングリストの追悼メッセージを印刷した冊子が届き、何人かが参列してくれた。novのご家族は、彼がこんな活動をしていることを知らなかったらしく、驚き、そして喜んでくれた。
 僕とスタッフ、コヤマ君、ライターの角野さん、彼のカメラマン時代の友人などと一緒に、彼を見送った。


 novから僕に届いたメールの総数は、1300通ほどもあった。仕事のメールもあれば、他愛のないおしゃべりもあった。
 僕やコヤマ君がメールのサブジェクトに「コンテンツ確認」「New RED & BLACK 調整」などと書いて送るのに対し、novときたら、すぐこういうサブジェクトで返してきた。
 「ゴリラの一郎 花とさけ」「後手、七三桂馬」「タマゴのタンゴ、スメランド」「だまってジャガーについてこい!」
 未だに意味が分かんないよ。

 スタッフとこんな話をした。
「novは、RED & BLACK初の殿堂入りだな。あいつは俺たちの、永久名誉管理人だ」
 今ある「RED & BLACK」「aspirin-ml」そしてファンサイトの道しるべを作ってくれたのはnovだ。だから、僕たちがこれからやるべきことは決まっている。
 この道を、今まで通りに彼と一緒に進んでいく。


 nov。
 ありがとう。なんか、ちゃんと言えなかったけど。

 そっちはどうだい?
 いい所かい?
 花は咲いているかい?

トップに戻る | 次を読む


(C)2003 Takuji Oyama