《stories》レコーディング 07.01.2001


 5月の末にイベントに出て以来、ほとんど人前に出ることもなく、ずっとスタジオワークを続けていた。9月にリリースする《stories》のための作業だ。
 80年代にリリースした7枚のアルバムの中から、ストーリー性の強い楽曲を15曲セレクトし、短編小説集のニュアンスで新しいアルバムを作る。それが今回のテーマだ。僕にとってデビューして初めての、いわゆるベストアルバムになる。だが単に古い曲を並べるだけじゃなく、新しい息吹も入れたくて、ここ数年のライヴテイクを入れたり、新たにレコーディングするというアイデアが生まれた。
 レコーディングする曲は〈Gallery〉に決めていた。ライヴで督さん(中野督夫 : センチメンタル・シティ・ロマンス)と2人でプレイした時のツンと澄んだイメージを、今の音として残したかった。
 6月の頭、三軒茶屋のクロスロードスタジオに2人でアコギを持って入った。
 以前の歌を再レコーディングすることは、ある意味リスクを背負う。リスナーの耳には、もちろん僕の耳にも昔の音のイメージがくっきりと残っているから、それを払拭するサウンドを産みださなければいけない。その自信はあった。僕のスリーフィンガーと督さんのシャープなリフがからむことで、新しいサウンドを作っていく。
 面白いことがあった。ギターを弾く人間には、それぞれの手癖というものがある。督さんがこう言う。
「小山君、そのフレーズええなあ。それに俺のフレーズからませようか。どうやって弾いとんの?」
「こうだよ」
「え? どう?」
「だから、ドイタトイタトンタン」
「ん? ドイタ……トン?」
 僕が無意識に弾いていたフレーズが督さんには新鮮に聞こえる。逆もある。
「小山君さ、俺がイレブンの音入れるから、下でこの音入れてくれる?」
「え? どれ? あ、これか。え? 難しい、指がつる!」
 数時間の後、新しいサウンドが生まれた。

 6月11日。《手首》レコーディング以来のHi.t Soundへ。ミキサーも以前と同じ井原君だ。ソファに座って弦を替えながらフレーズを再確認し、その場でまた新たなフレーズが生まれる。まずはスタジオに入り、一度軽く録ってみる。督さんのマーチンD-35と僕のD-28でやってみて、音を確かめた上で僕がギブソンDOVEを弾くことにする。マイクの位置を微調整し、2度目のテイク。その日のレコーディングは、ボーカルと2人のギターをいっぺんに録る方法だ。スタジオ内で2人で向かい合い、2本のギターとボーカル用にマイクが立つ。それぞれのマイクが他の音も拾う。2人の間の少し高い位置にアンビエンス(全体の音をまとめて録り、その音もミックスする)のマイクも立てる。間違えたらやり直しの緊張感がある。2度目のテイクをミキサールームで聴き、軽口を叩き、「じゃあ、もう1度やってみっか」とスタジオに入る。ギターを抱えてヘッドホンをすると、心地よい緊張と高揚が体に走る。互いのフレーズを聴き、その姿を見ながら歌う。エンディングを迎え、最後の音を延ばし、顔を見合わせる。
「聴いてみようか」
 それがOKテイクになった。

 翌日からは二子玉川園のCOSMIC FACTORYで、〈Gallery〉のミックスと全曲のリマスタリングの作業が始まる。これまた《YELLOW WASP》以来の穴井君がやってくれる。彼の耳とセンスが強力な武器だ。〈Gallery〉のミックスを順調に終え、今回の15曲を改めて並べて聴いてみる。初期のTHE CONXとのプレイが不思議に新鮮に響く。ストレートでけれんみがない。まあ、当時はあれでいっぱいいっぱいだったせいもあるんだろうが、その時の熱狂や汗までが蘇ってくる。
 83年の声から、つい前日レコーディングした声まで、声の変遷もそこにある。
 翌日から本格的にリマスタリングの作業が始まった。リマスタリング中に僕が何をしているかというと、ソファに座って煙草を吹かし、コーヒーをがぶ飲みしながら、ああでもない、こうでもないと言っているだけだ。はたから見ると偉そうにふんぞり返っているようにしか見えないだろう。使っているのは耳だけだ。丸1日音と向かい合っていると、耳がぐったり疲れるという不思議なことになる。
 耳を澄ませるのは、まず何よりもボーカル、そして全体のバランス。穴井君が僕の漠然としたイメージを次々と具体化してくれ、新たな提案をしてくれる。

 ちょっと脱線。
 昔の歌謡曲などを聴くと、ボーカルが異様に馬鹿でかい。現代でも、シングルの曲だけは意識的にボーカルを数デシベル上げることがある。言葉をより明確に伝えるためだ。
 昔々のことなんだけど、僕の歌が超有名CMの候補になったことがあった。結果? それは言うまでもないでしょ。その時スタジオに、その超有名CMの女性プロデューサーが登場し、僕の歌のサビの部分の歌詞をずたずたに切り裂いて、まるでパズルのように組み替え、「この方が全然いいでしょ」と胸を張った。僕は怒る前にあっけに取られてしまったが、確かにCMで15秒だけ流れることを考えれば、いわゆるキャッチーな曲になっていた。
 その時女性プロデューサーがこんなことを言った。
「私はCMの曲を作る時、ミキサーがこれ以上無理ってとこまで上げたボーカルを、最後にもう数デシ(ベル)上げるようにいつも言ってるの」
 なるほど、一理ないこともない。結局話はボツになってしまったが、貴重な体験ではあった。15秒で伝わることもある。テレビでくり返し垂れ流される15秒で耳が麻痺することもある。だがその15秒でヒットすれば、間違いなく大金が転がり込む。15秒のギャンブルだ。その世界で生きると決めるのなら、それなりの歌の作り方があるということだ。
 頭で理解はしたが、相変わらず僕の歌は軽く5分を越えてしまう。

 順調にリマスタリングの作業が進んでいる時、ジャケットデザインの作業も同時進行していた。今回、素敵な出会いがここにあった。とはいえ、僕の話じゃない。
 数ヶ月前のこと、カメラマンの内藤から突然連絡があった。
「小山ちゃんを撮ってみたいんだ。いや、仕事じゃなくてさ。今までみたいな、富士山で崖から落ちたりビールぶっかけたりってやつじゃなくて。イメージはチープなイタリアンなんだけど、大人の小山の表情を撮りたいんだよ。ザラザラの質感じゃなくて、奥行きのある写真を。で、その写真をデザイナーのコヤマさんにデザインしてもらいたいんだ」
 コヤマ君はこのRED & BLACKで内藤の写真をたくさん使ってデザインしている。それを内藤が見たこともきっかけになったようだ。確かコヤマ君と内藤は、僕のライヴの打ち上げで同席していた。その時2人が話していたかどうかは記憶にないが。
「で、撮影の時は、石橋君にアシスタントをやってもらおうと思ってる」
 石橋君は、ここのところ僕のライヴをずっと撮影してくれているし、《手首》のジャケットも撮っている。
 この2人の出会いは憶えている。これまた僕のライヴの打ち上げの時だ。たまたま見にきてくれて打ち上げに参加した内藤が、その夜ステージを撮影して打ち上げに顔を出して帰ろうとしていた石橋君をひっつかまえ、朝方まで話し込んでいた姿を憶えている。どうやらその後、内藤の現場で石橋君がアシストするという関係が生まれていたようだ。
 4月の末、渋谷にあるレノンという、以前内藤などと飲んだくれていたバーで撮影。内藤のファインダーにのぞかれるのは、「明日なき暴走」の表紙撮影以来だから、2年ぶりくらいになる。内藤の撮影には、独特の張りつめた空気感がある。シャッターが下りるたびに、確信が高まり、熱が生まれる。そんな僕と内藤を、後ろから石橋君が見守る。
 場所を六本木トンネルに移し、そこでコヤマ君も合流。夕方の光の中で撮影が続く。コンクリートの壁に反射する光と、大きな柱の影。
「やっぱ小山ちゃんは影の方が似合うな」
「うるせえ」
 撮影を終えた数日後、プリントを見せてもらった。すごかった。その時、心の中ではもう決めていた。この写真をベストアルバムに使わせてもらおう。デザインはもちろんコヤマ君だ。何か大きな流れが生まれている気がした。僕の知らないところで、内藤とコヤマ君、内藤と石橋君がつながり、内藤が仕事と関係なく僕の写真を撮り、そこにコヤマ君が現れ、偶然が必然になり、ジャケットのイメージが決まった。

 リマスタリングの最終日。最後の微調整に入った。0.1デシベルの調整、曲間の長さを0.2秒の調整。そして改めて通して聴いてみる。77分の物語。
「……できたね」
 聴き終わり、深く息を吐いてソファに沈んだ。疲れてはいたが、大きな達成感があった。
 スタジオを出て軽く乾杯した。
「穴井君には、今度はニューアルバムのレコーディングのミキサーをやってほしいな」
「喜んで」
 彼は高校時代に僕の歌を聴いていてくれて、「そうか、あの時の音を俺がリマスタリングするんだ」と、相当張り切ってくれたらしい。
 彼が初めて僕と仕事をする前、彼は僕の渋谷ON AIR WESTのライヴを見にきてくれていた。何よりもまずはライヴを見て、それから仕事をしたいと。
「僕は音を録るんじゃないんですよ。人間を録るんです」
 名言だった。

 ジャケットの色校正、文字校正を終え、すべてのプロジェクトが完了した。このプロジェクトの間にも、たくさんの才能ある人と出会うことができた。それが今の僕の大きな宝物になっている。そしてひとつの仕事を完璧にクリアすれば、次のテーマが明確に見えてくる。
 そう。次はもちろんライヴだ。

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(C)2001 Takuji Oyama