23年目の“初めまして” 07.25.2005


 今年に入って、デビュー以来初めてとなる県でのライヴが3ヶ所決まった。

 古い友人で、鳥取県の米子に住んでいる渡辺末美君とちょっとしたきっかけからメールを交換し始めたのは、今年初頭のことだ。
 彼は僕がデビューした頃、“アリーナ37”という雑誌で編集をしていて、僕へのインタビューや取材を担当していた。仕事を離れても、たまに飲みに行くような関係だった。彼が故郷の米子に帰ったのが90年代に入った頃で、僕らはメールで15年振りに再会した。彼は今、米子市内で奥様と一緒にNaturaというお店を経営し、同時に米子の音楽シーンで様々な活動にたずさわっているということだった。
 近況を報告し合うメールの中で、「米子にはどんなライヴハウスがあるの? もしやれるんなら、ギター1本抱えていつでも行くよ」と書き、「そうだな、また一緒に仕事したいね」と返信をもらった。
 その頃、4月の関西のライヴが決まり、末美君からは「Jazz inn いまづ屋っていう、いい小屋があるよ」とメールをもらった。話は急に具体化し、見切り発車的だったけれど、米子でのライヴが決定した。『another story of “eyes”』というタイトルを考えてくれたのは末美君で、Jazz inn いまづ屋との話し合いも引き受けてくれた。さらに彼の尽力で、山陰放送の収録やWEB VOICEというサイトでの取材も決まっていった。
 大阪のライヴを終えた翌日、初めての高速バスに乗って3時間半、米子駅前のバスターミナルで、僕は末美君と本当の再会の握手を交わした。
 ライヴ当日、Jazz inn いまづ屋のハウスバンドの風我の人たちがフロントアクトを勤めてくれ、風我のベーシストでJazz inn いまづ屋のオーナーでもある町田研さんが、ウッドベースで僕の歌に参加してくれた。客席には少ないけれど、ずっと待ってくれていた熱狂的なファンの人たちが来ていた。僕はまさに原点に帰った気持ちで、全14曲、渾身の力を込めて歌った。幸せだった。
 東京へ戻った翌日、米子で気象台観測史上最高気温を記録したとテレビのニュースが言っていた。 もし米子に行っていなかったら、そのニュースは僕の耳にはとどまらなかっただろう。 米子は、もう僕にとって知らない街じゃなくなった。
 そしてこの一歩を次につなぐことができるか、それは僕次第だ。


 オフィシャルファンクラブ〈ONE〉で3ヶ月に1回発行しているウェブマガジン〈eyes〉の企画で、友人でシンガーの鎌田ひろゆきと対談した。
 対談も終わって、酒を飲みながらお互いのライヴについて話していた時、「どこか2人とも行ったことのない街へ行きたいな」などと話していた。スタッフが「長野なんてどうです? 意外に東京から近いんですよ」と提案してきた。軽井沢までは行ったことはあるが、長野市はプライベートでもない。
 後日、ネットで長野までのアクセスを調べてみた。地図上の高速道路をたどってみると、確かに近い。集客はだいじょうぶだろうかとしばらくは考えていたが、これも見切り発車で、長野ネオンホールのスケジュールが決定した。
 もちろん小さなライヴハウスだが、やるからにはベストのライヴをやるつもりだ。鎌田とは、共作したこともあるし、互いのアルバムにゲスト出演したことも何度かある。一緒にやれる歌はたくさんあるだろう。メールをやり取りしながら、候補曲をしぼっているところだ。今からすごく楽しみにしている。


 ある日、耳を疑うような話が飛び込んてきた。高校の文化祭への出演依頼だった。話をくれたのは、大分県立三重高校の教師、藤澤一郎君という人だった。そこで、ぼんやりとした記憶がつながった。
 大分に、僕の歌をコピーしてくれているバンドがいるという話は、ファンサイトなどで知っていた。そのバンドのメンバーが藤澤君だった。彼は以前、〈YELLOW WASP〉や〈いつか河を越えて〉を授業の素材として使い、人権や差別についての授業をやったと聞いていた。
 その後も〈Passing Bell〉や〈種の歌〉を使い、現代詩の読解などの授業をしてくれたそうだ。それがきっかけで生徒諸君が僕の歌に興味を持ってくれ、文化祭に呼ぼうという話になったという。
 事務所に届いた彼からのメールを読み、即決した。
 藤澤君とメールを交わした。三重高校は2年後に廃校になるということで、全学年が集まる文化祭は今年で最後になるそうだ。生徒もすごく楽しみにしているという嬉しい話も聞いた。生徒から聴きたい歌のアンケートを取ってセットリストを決め、さらに、彼のバンド、COCK'Sと共演しようという話にもなった。
 その後、藤澤君から事務所に届いたメールによると、僕を正式に呼ぶことを決める職員会議の席上で、彼は僕のプロフィールなどの資料を全職員の方に渡し、〈種の歌〉をかけたそうだ。職員会議で僕の歌が流れたのは多分日本で初めてなんじゃないかと、彼もメールに楽しげに書いていた。
 文化祭“すずかけ祭”が開催されるエイトピアおおの大ホールは、当日は一般開放される。よかったらぜひ見に来て欲しい。とても素敵な時間がそこにあるはずだ。
 藤澤君に心から感謝している。僕の歌をずっと聴いてくれていたこと、自分の立場で若い世代に歌を伝えてくれたこと、そして晴れやかな場所へ招待してくれたことを。
 文化祭前日、大分のライヴハウス“カンタループ||”でのライヴも決まった。
 7月に入り、三重高校の生徒諸君から僕宛にメールが届き始めた。藤澤君とスタッフが話をして、生徒諸君にアドレスを伝えた。高校生からのメールなんて、くすぐったくて、でも本当に嬉しい。できる限り返信している。

 デビューして23年目に入った。みっつの「初めまして」が実現することになったのは、ほんのちょっとしたきっかけや、今までの少しずつの積み重ねの上での話だ。もちろん、どうして今までできなかったんだろうということでもある。でも、遅すぎることはない。ここから始めればいいんだから。


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