親父のこと 11.01.2000


 僕の親父のことを書こうと思う。ささやかな思い出話をしたいわけじゃない。これを書くことで、僕が本当に親父を愛していたか、親父に心底で愛されていたかを確かめたいと考えている。

 親父はカリフォルニアで生まれた。親父の親父は福岡の片田舎で生まれたが、長男ではなく、食いはぐれ者のようなニュアンスで海を渡ったのだろう。洗濯屋を営み、子供の頃の親父は、英語で近所の子供と喧嘩していたという。日本に戻った親父は法政大学を出て、新劇の役者になった。藤波真治という芸名もあった。いっぱしのモダンボーイだったようだ。髪をオールバックにし、ベレー帽をかぶった写真があった。だが実家の都合で福岡へ帰ることになり、夢はついえた。戦争が始まり、1年ほど兵隊にもなった。戦後、熊本へ移って高校教師になり、地元の演劇活動に参加し、お袋と結婚し、高校演劇の脚本を書くようになった。その頃のことを親父が話してくれることはほとんどなかった。

 平屋の小さな家。3人の子供。白黒テレビがカラーになり、新しい冷蔵庫を買い、中古の車を手に入れ、1年に1度くらいはごちそうを食べる。僕たち家族は、世間から外れることもなく、ちょっとだけ背伸びをしている、どこにでもいるよくある家族だった。
 ぼんやりとした最初の記憶。幼かった頃、親父はよく僕を自転車に乗せ、繁華街のしゃれた喫茶店へ連れて行ってくれた。親父はパイプをくわえて新聞を読み、僕は窓から見える人並みを眺めながらソフトクリームをなめた。
 抱きしめられた記憶はない。ある日母親にしかられ、悔しさで庭にあったバケツを蹴飛ばした。親父が部屋から飛んできて、いきなり殴られた。殴られるほど悪いことをしたとは思えなかった。親父は機嫌が悪い時、激しく子供を怒鳴り殴った。子供への教育などではなく、ただ怒りのはけ口として。今の僕よりも若かった頃の親父だ。その時親父はきっと脚本を書いていたんだろう。筆が乗れば、徹夜で書いていたそうだ。
 机に向かって脚本を書く親父の背中を、図画の宿題の絵に描いたことがある。なぜその絵を描いたのかは憶えていないが、文章を書く親父の背中には微かに神聖な空気が漂っていたように思う。僕はそんな背中が好きだった。

 兄と姉と僕の3人兄弟の中で、兄が一番厳しくしつけられた。成績が下がったためだったか、ひと晩中外に放り出されていたことがある。兄に比べ僕は虚弱体質で、自閉症気味の子供だった。
「兄貴を殴っても大丈夫な気がしたが、おまえを殴ると壊れそうな気がする」
 親父にそう言われたことがある。僕にはそれが、甘やかされているようにも、あきらめられているようにも思えた。僕は家族の中で、「父、母、長男、長女、その他」といった妙な疎外感を感じていた。

 親父が買ってきたプレスリーの「ハートブレイクホテル」やアニマルズの「朝日のあたる家」のドーナツ盤があった。僕は何度も何度も飽きずに聴いた。本棚一杯に親父が選んだ子供のための本が並んでいた。童話や偉人伝、子供用に脚色された文学全集。僕はその本棚の前に1日中座って、何度も何度も暗記するほど読み返した。
 ピアノや絵を習わされた。嫌でしょうがなかった。今はステージではピアノを弾くが、その時に習ったことは何も役にたっていない。まだ小さかった手でオクターブを押さえなければいけなかったせいか、弾き方がおかしかったせいか、僕の両手の小指は少し内側に曲がっている。

 ある日、親父の説教の最中、覚えたばかりの精一杯の語彙を使って「そんなことを強制されたくない」と言った。親父は呆気にとられていた。僕は親父に向かって初めてそんなセリフを吐いた子供だったはずだ。もちろんその後殴られた。
 親父は僕の前に世間の代表として大きく立ちはだかっていた。それゆえに、それを越えることが無意識の僕のテーマになっていた。
 親父は鋭い目をしていた。たまに家族と一緒の時でも、フッといらついたようなきな臭い目をすることがあった。今の自分にかえりみてみると、歌を作っている時や、それが何かで中断された時、同じ目をしているように思う。親父は家族団欒の最中に、自分だけ創作の世界に飛びこんでいたのかもしれない。
 親父は立派に親父像になりきっていたが、何か不自然だった。子供の頃は感じなかったが、親父は親父たらんとして自分を型にはめ込んで演じきろうとしていた。そんな努力が、ふいに壊れる時があった。
 僕が中学に入って間もない頃。したたかに酔って帰ってきた親父は、僕がそこにいたからというだけで、僕に説教を始めた。つじつまの合わない説教だった。そのうち僕がやり始めていた音楽に矛先が向いた。
 その頃僕は部屋にこもりっきりで1日中レコードを聴いて、何度も何度もできるようになるまでギターでそれをコピーし、稚拙ながらもオリジナルを作り始めていた。
 物まね音楽。そんなことをしてどうなるっていうんだ。愚にもつかないことを。将来のことを考えろ。
 プレスリーのレコードを買うモダンさはあっても、自分の息子にそれを当てはめることはなかった。そのうち激高した親父は、おまえの歌を歌ってみろ、と怒鳴った。僕の部屋からギターを持ち出し、僕につきつけた。
 もしかしたら親父はその日、誰かに自分の作品を非難されたのではないかと今は思う。自分のアイデンティティが揺らぎ、思い切り作品に没頭できない状況にいらだち、その遠因の息子がお気楽に歌など作っている姿が、しゃくにさわったのかもしれない。

 親父の書いた脚本で上演される高校演劇を何度か見にいった。大きな舞台で演じられる芝居を見ながら、僕は少し得意だった。家にいる時とは違う、華やいだ親父がそこにいたからだ。親父は学校の先生ということとは違うニュアンスで先生と呼ばれていた。
 若い男と女が心中する物語があった。高校演劇の題材にしては生臭い。見終わったお袋が、小さく「ひどい」と言ったことを憶えている。涙ぐんでいたようにも思う。僕にはその物語のどこにお袋の涙の原因があったのか分かりかねた。そうお袋に思われることを分かって脚本を書いた親父の気持ちが理解できなかった。作品を生み出す時だけ、親父は家長の仮面をきっぱりと脱いだ。
 親父は熊本弁のイントネーションで喋らなかった。ある時こんなことを言った。
「18年以上同じ土地に住むと、そのイントネーションは絶対に抜けない。役者としては致命傷だ」
 僕は自然と親父を真似、中途半端な標準語をしゃべったが、いまだに24年間住んだ熊本のイントネーションが微妙に出る。最近になってようやく鼻濁音が使えるようになった。
 親父がごくたまにする芝居の世界の話は、僕の中に遠い憧れとして刻みつけられた。しかしそんな話をする親父には、妙なしこりが感じられた。それが都落ちした敗残者の表情だと気づくほどに、僕は大人ではなかった。

 僕は親父が教師を勤める高校に入学し、親父から日本史を習った。教壇に立つ親父の姿に、僕は居心地の悪さを感じた。親父はマニュアル通りの授業をしているにすぎないように思えた。ただ教師という役を演じているように見えた。放課後になると、演劇部の顧問として生徒たちと嬉々として語り合っていた。
 学年で何番以内だったらどこそこの大学に入れるだとか、以前おまえと同じようなことをした生徒がこうなったとか言われるのが一番嫌だった。教師に言われるのならまだしも、親父の立場で教師口調で言われることが無性に腹立たしかった。
 高校を辞めると親父に話した。音楽はまだぼんやりとした夢でしかなかった。言葉で説得できる自信もなく、でも気持ちを分かってほしくて、僕はその頃書いていた今にして思えばつたない詩や文章を束にして親父に渡した。僕は親父に一人前だと認められたかった。親父の理想の次男坊の型ではなく。
 だが結局僕は、背中を丸めた格好で高校3年間をやり過ごした。留年寸前の成績だった。そのことでずいぶん親父を憔悴させたと、後で聞いた。
 親父は自分のことをエリートだと思っていた。そして子供たちも当然エリートに育てようと思っていた。エリートに育つものだと信じていた。僕にはそれが鼻持ちならなかった。兄も姉も国立大学にストレートで合格した。僕だけが三流の私立大学に落ちた。型にはめようとする親父の考えが見えた時から、僕はそれをネガティブな方法で否定し始めた。そんな僕に親父は憤っていた。信じられないといった顔をした。
 一浪して地元の私立大学に入り、20歳を過ぎた頃、家出してアパートを借りた。親父の顔を見なくてすむことに何よりホッとした。僕は親父と向き合うことより逃げだす方法を選んだ。どうせ口で言っても分からない。
 親父は僕の作る音楽のことを頭から否定していた。そんなもので食えるわけがないと。しかし本当の気持ちは、そんなもので自分を表現できるはずがないと、表現者の端くれとして思っていたのかもしれない。

 地元のアマチュアコンテストで〈FILM GIRL〉を歌い、優勝した。それがローカルのテレビで深夜に放送された。しばらくして実家に立ち寄った時、たまたま顔を合わせた親父が言った。
「あの曲を誰か分かる人間に聞いてもらえ」
 深夜のテレビを親父が見ていたことにも驚いたが、僕の作品を初めて認めた親父に心底驚き、嬉しかった。だが僕はうつむいて、つっけんどんに「ああ」とだけ答えた。
 東京へ出ることを決めた時、親父とひさしぶりに飲んだ。話すことはあまりなかったが、親父が静かにこう言ったことだけは鮮明に憶えている。
「どこの世界にも例外ってやつはいる。だけど自分の息子がそうなるとはな」
 デビューできる当てなどなかった。親父は負け犬になろうとしている僕を慰めようとしていたのだろうか、それとも父としての自分のふがいなさを感じていたのだろうか。

 東京へ出て1ヶ月後、デビューのきっかけをつかんだ。
 親父はどう思っただろう。自分がやりたかった表現の仕事についた息子に、かすかにでも嫉妬はなかっただろうか。それとも自分の血を濃く引き継いだ息子を誇りに思ってくれただろうか。
 親父は何度か、僕の歌に対して批評のようなことをした。だがその内容は忘れてしまった。僕は同じ表現者としての立場で言う親父の意見を必要としていなかった。
 たまに会う親父は、あいかわらず暴君のように家族を支配しようとしていたが、音楽の世界を見つけた僕は、それを甘んじて受け入れる余裕を、少なくともやり過ごす余裕を持ち始めていた。
 それから、親父は倒れた。煙草を吸い、酒を飲んだつけが回って、視力の大部分を失い、教師の仕事を停年退職した。僕は数年に1度くらいしか帰ることがなく、僕の中の親父は少しずつ輪郭を失い始めていた。親父には好々爺のイメージが似つかわしくなっていった。鋭さはもうなかった。

 今年の5月、病状が悪化したと聞き、熊本へ帰った。親父は持ち直していて、ひさしぶりに集まった家族全員で食事をした。親父は僕たちの会話を静かに耳に染みこませているようだった。それが親父と話した最後になった。
 夏の終わり、親父は逝った。僕は電話でその知らせを聞いた。受話器を置き、ぼんやりと天井を眺めた。ややあってバッグに着替えや喪服を詰めながら、地味な涙がだらだらといつまでも出た。
 告別式の日は風が強く、雨が降ったりやんだりしていた。親父は逝く前、病院のベッドで、「芝居の夢を見た」とお袋に言ったそうだ。それも何度も。自分の一番楽しかった時代をかえりみながら逝ったのだろう。
 棺の中に、親父が書いた1冊の脚本集が納められた。自費出版で出した、親父が残したたったひとつの作品だ。いや、少なくとも親父は3人の子供という作品を残した。その出来不出来はともかくとして。

 親父は男として、表現者としては理想に近かったが、父親としては失格だった。親父は必死に父親や教師を演じようとしたが、その演技はなっちゃいなかった。それに気づいた子供たちは、親父の望んだ「家族」という幻想世界から抜けだし、親父が脚本を書いて演出した「家族」という芝居の舞台を降り、親父を越え、そして少しだけ優しくもなった。
 兄や姉やお袋がこのように親父のことを書くなら、きっとまるで違うものになるだろう。これは僕だけの親父の姿だ。親父は親父のやり方で僕を愛してくれていたはずだ。僕も同じように、直接伝えることはなかったにせよ、親父を愛していたはずだ。だがその愛というものが、破ろうにも破れないオブラートに包まれている。それがもどかしい。
 親父が僕に伝えたかったことの大部分を、僕は聞き逃してしまったのかもしれない。子供の僕にソフトクリームを与えて1人で新聞を読んでいた親父の心の中には、どんな嵐が吹き荒れていたのだろう。もし1度でも僕に対して弱音を吐いてくれれば、僕はもう少し穏やかに親父の心に耳を傾けることができたかもしれない。親父の中途半端な美学が、そして僕の逃げ腰の態度が、愛を確認するチャンスをふいにした。この文章をどれだけ書き連ねても、血の通った愛にはたどり着けない気がする。
 親父になくて僕にあるものは何だろうと考える。はたしてそんなものがあるのだろうかと。親父に似た部分を自分に見つけることがある。僕の歌にストーリーのあるものが多いのは、親父の脚本の影響だ。親父から受け継いだ。違ったのは、僕がその物語を自ら舞台で演じることだ。そしてそれこそが、親父がやりたかったことだったのだろう。

 もし時代が違っていたら、もし実家に帰らざるを得ない事情がなければ、親父はきっと役者としての人生を生きただろう。この一生を送ったことに対して後悔があったのか、親父に聞くことはなかった。
 芝居を捨て、小さな家を持ち、何本もの脚本を書き、子供を作り、孫が生まれ、教師の仕事を全うし、自分の一番美しかった頃の夢を見ながら逝った親父。その夢の中で、親父はどんな役を演じていたのだろう。どんな人生をやり直していたのだろう。

 1人の役者が、静かに舞台から降りた。

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(C)2000 Takuji Oyama