かけがえのない物語 04.13.2009


 2月から3月にかけて、名古屋、大阪、東京で長いライヴをやった。
 お客さんから1人5曲ずつリクエストを募って、そのベスト30曲(東京は37曲)を歌うライヴだ。
 リクエストと一緒にメッセージも募集したところ、たくさんのメッセージをもらった。そのひとつひとつが、今の僕の宝物だ。
 ライヴのMCでは紹介したが、もっとたくさんの人に読んで欲しいと思った。
 “それぞれの人生と、歌との結びつき”を書いてくれたメッセージをセレクトして、紹介しようと思う。
 ここにあげるのは、1人1人の、小さいかもしれないけれど、かけがえのない物語だ。
 掲載することは事前に言っていなかったから、名前は伏せることにした。

                         ○

 私が初めて小山卓治を知ったのは、福岡にいた19の夏、友人から〈FILM GIRL〉を聞かされたのが初めてでした。その後アルバムを聴いて、アッという間にファンになりました。
 当時、私は洋楽しか聴いておらず、日本語の歌詞をどこかバカにしたようなところがありました。が、その思いは一変! 映画のセリフのような歌詞に圧倒されました。
 そして20数年、私もテレビでドキュメンタリーを作るという、同じ表現の仕事をするようになりました。
 今でもあなたは、私にとって孤高の存在、そしてお手本です。


 〈Passing Bell〉は、〈eyes“1 to 3”〉を東京で見逃してしまい、大阪まで見に行った時、客席の中で、オレのほぼ目の前で歌ってくれて、最後にピックをもらいました。
 仕事で大チョンボして落ち込んでいて、大阪なんて行ってる場合かっていう状況の時だったので、ものすごく嬉しかったことを思い出します。本当に大阪へ行って良かった!


 1986年、渋谷LIVE INN。人の波に押し出され、ステージのモニターを押さえながら、どうにか踏ん張り、酸欠寸前でライヴは終了。
 ほどけていく熱気と、ため息と、そして感動を、今でも忘れてはいません。
 怒涛のライブから20年以上が過ぎた今でも、卓治の歌のかたわらで時間を過ごせることを、心から感謝します。


 20代の頃は、30を過ぎても生きている自分なんて想像できなかった。30歳の頃は40を過ぎたら賢くなれるのかな? と思っていた。40歳の時、いくつになっても変われない自分を知った。
 45歳の時に卓治さんの音楽と出逢った。(遅すぎた〜)
“このままじゃいけない 変わらなきゃいけない”
 あっという間に5年が経った。
 50歳を過ぎた今、このままでいいような気がしてきました。
 〈天国のドアノブ〉は、ひとりで聴きたい曲です。ライヴでは、目に力を入れていても顔の修理ができないほど泣けるので嫌です。卓治さんの音楽と出逢えて本当によかった。


〈FILM GIRL〉へのメッセージ

 先日、Aloma Black'sでの演奏を改めて聞いて、「私の(人生の)背骨の半分は、小山卓治の歌でできている」と実感しました。25年前にこの曲を聴いて誓った想いを、今も忘れません。


〈カーニバル〉へのメッセージ

 自分が何者であるかも分からず、どこに行くのか当てもないまま、夜の街を飲み歩いていた頃、このフレーズが胸に突き刺さりました。
 強がって大きなことばっかり言っていた自分にとって、“ちっぽけなカーニバル”という等身大の言葉が、強く印象に残りました。


〈DOWN〉へのメッセージ

 夜中にラジオを聴きながら、宿題や一夜漬けのテスト勉強をしていた15歳の時、流れてきたこの曲を聴いて、「ビビッ!」っときてしまいました。
 翌日、学校帰りにレコード店で「オヤマタクジ」という名を探し出し、買って帰った思い出があります。
 15歳の女の子が、なぜ〈DOWN〉に共感したのかは、自分のことながら、いまだに謎です。


〈傷だらけの天使〉へのメッセージ

“友よ答は風の中にある” 
 答を探して風の中を走って、たどり着いた先は自分自身でした。見えてくる風景は、大きく変わりました。今の自分をつき抜けて、走り続けます。


〈PARADISE ALLEY〉へのメッセージ

 朝、家を出ていつもの堤防に着くまでの間、頭の中で壊れたテープレコーダーのように卓治の〈PARADISE ALLEY〉の断片的なフレーズが再生を続けていた。隣の家でかけている曲が漏れ聞こえてくるといった奇妙な感覚で、特に意識すらしていなかった。
 堤防に到着し、走り始めたら、その音はより鮮明になってきた。隣の家の垣根を越えて、こちら側にやってきた。
 なぜか口笛を吹いていた。週末を迎え、気分が高揚していたのだろうか。それとも、昨日、隣町の里山でノコギリクワガタを捕まえたせいだろうか。それとも、この日の夜、ひさしぶりに会う高校時代の友人たちと一杯飲むからだろうか。
 口笛を吹く理由なんて、何だっていいのかもしれない。少しだけ、走っている堤防の通りが、PARADISE ALLEYに感じられさえすれば。


〈Passing Bell〉へのメッセージ

 今から20年前くらい、僕が15、6歳の頃のことです。 
 深夜のラジオでこの曲がかかり、最後のサビのくり返しの部分しか聴くことはできなかったのですが、強烈な印象を受けました。
 小山卓治の名前も、曲のタイトルも聞き逃し、何の手がかりもないままこの曲を探し求めて、今から約3年前に、ネットでこの曲と卓治さんに再び出会うことができました。
 僕は卓治さんのライブに行きだして3年足らずですが、この曲は20年間僕のベストワンであり続けています。


〈最終電車〉へのメッセージ

 当時はあまりピンとこなかったけど、今はよく分かる。“守るっていうのは最後の男の戦い”で、ささやかだけど明日も幸せな朝を迎えたい。
 今の僕はその通りで、カミさんと子供を守り抜くことが一番の仕事だ、もう少し若い時は疑問もあったけど、この小さな幸せをこれからも守り続ける日々に感謝しようと思う。


 約22年前、20代半ばの頃、自分もよく最終電車に乗ることがあった。1番の歌詞が、まさに今の俺のことだと思っていた。4番の“俺たち一体どこへ出発したんだろう”辺りを心の中で歌う頃には、窓ガラスに映る自分を見ながら、「オイお前」って、泣きそうになるのを押さえながら突っ立っていた。
 今でも感傷的になっている時にこの歌を聴くと、こみ上げてくる時があります。


〈Bad Dream〉へのメッセージ

 初めてこの歌を聴いてから今まで、ずっと頭の中で鳴り続けています。何度も挫折し、思い通りにならない暮らしの中で、家族もできて、落ち着いていても、やっぱり心のどこかで、まだまだこんなもんじゃないと思い続けられる、落ち込んだ時に気持ちを奮い立たせてくれる、この素晴らしい歌に感謝します。
 これからも、“走り出せばまだ間に合う”と信じ続けて行こうと思います。


 社会人として20数年働いています。会社や社会のシステムに飲み込まれそうな時に、信念を貫けるように自分を鼓舞してくれる歌です。


〈Yellow Center Line〉へのメッセージ

 1987年、就職して東京から愛知に移り住んだ自分を待っていたのは、今までの常識が通用しない大人だけの社会。強烈な孤独感。自分の居場所が見えない漠然とした不安。
“ほんとにいい時はこれからさ”
 このフレーズにどれだけ励まされただろうか。そして、これからもそう思い続けるつもりだ。


〈Heart Attack〉へのメッセージ

 この曲を、今の小山さんの声で、アレンジで、とても聞きたいです。人生のその時々に小山さんの歌があって、どの曲が一番大事な歌なのかは簡単には言えませんが、この歌は、現世に私を繋ぎとめてくれた、とても大事な歌です。
 「そんなこともあったね」と笑えるのは、この歌のおかげです。今でも私の大事な大事なお守りです。


〈花を育てたことがあるかい〉へのメッセージ

 高校時代に出会った卓治の曲は、自分に負けそうだったり、世の中の理不尽さに負けそうだったり、悔しくてがんばるしかなくてつらい時に、いつもトリガーのようでした。言い方が見つからないけど、主にそういう役目だった卓治の歌。
 それまでにも優しい歌もたくさんあったのに、〈花を育てたことがあるかい〉は衝撃的でした。
 その頃は、体調が悪く仕事もヘビーでしたが達成感もあり、何とかがんばれてた。でも、結婚生活にはくたびれていました。
 暮らすまでは気付かなかったことの一番は、「彼は家族になる」「信頼し合う」「相手を含め元の家族を守る」という考えが彼には分からないということ。ショックでした。だから言葉を尽しても、可能な限り献身しても通じなかったのか……。
 それにたどり着くまでも、かなりの時間、年月を必要としましたが、それからも話し合うことで理解し合ったり、考えの違いは認め合いながら近づいていけないだろうか? 夫の家族とはそうできて、本人とだけできないなんて……そう思い、ダメになるにしても何か伝えたくて、病むまでがんばりました。がんばったつもりで間違ってたのかもしれないけど。
 10年たってもいまだに全ての人間関係において、バランスが悪いのを引きずるほど、私には致命的な関係でした。
 そんな中、〈花を育てたことがあるかい〉は、目覚めのようでした。
 それからも時間を要しましたが、もっとおかしくなる前に結婚は終われました。
 今も人間関係の下手さにあきれ、落ち込みますが、人を信じたいと思ったり、誰かの役に立ちたいし信頼される人になりたいと思う気持ちは変わらずあります。より強くなって苦しいのかもしれないけれど、
 いつかきっと……と「伝え合う」ことを恐れない気持ちを支えてくれるのが〈花を育てたことがあるかい〉です。


〈前夜〉へのメッセージ

 親父にアルツハイマーの症状が出始めてしばらくたつ。
 去年の夏に会った時は元気そうで、リハリビ施設のことを嬉しそうに話し、あまり病人と話をしている感じがしなかった。
 だがこの前の帰省の際、私の隣にいる娘に「このお嬢さんは誰?」と聞かれた時は驚いた。試しに自分と弟で交互に「俺たちの名前は分かるか?」と尋ねると、数秒かかったが、応えられた。
 次に弟が「俺の子供の名前は?」と聞いたら、答えられなかった。
 弟の車で駅まで送ってもらう時間になり、自分と娘と車に乗り込むと、親父も、乗せてけとだだをこねる。どうも平日に出かけているリハリビ施設に行きたいようだ。
「今日は日曜だから休みだよ」
 話しかけても聞く耳をもたない。しかたなく施設まで連れていく。
 施設はお休みだが、清掃業者が来ていたので、扉は開いていた。親父の代わりに私が、「店長さんや看護婦さんはいらっしゃいますか?」と訪ねる。そこでようやく親父は、今日は施設が休みだということに納得したようだ。
 帰りの車は皆、無言だった。
 心配していた母親が、玄関で立っている。「さあバイバイしなさい」。娘に手を振らせ、その場を立ち去ることにした。 俺たち親子、心から分かり合える前に、ただ老いていくだけなのだろうか?
 父は、まだ沖縄がアメリカ領土のころ、中学を出て集団就職で東京へ出てきた。酒も、たばこも、ばくちも一切せず、仕事をしながら夜間高校。大学を10年かけて卒業した。
 そんなおやじの気持ちを、今日まで考えたこともなかった。聞いてみようと思わなかった。今、俺にできることは何だろう。何て話かければよいのだろう。


〈祈り〉へのメッセージ

 大学に通っていた息子が、昨年1月から引きこもってしまい、1年が過ぎました。順調に進んできた息子に一体何があったのか、話そうとしてくれません。親として何もしてやれないことが悲しく、彼が立ち直ってくれるのを、ただただ信じて祈る毎日です。
 そんな時、卓治の〈もうすぐ〉と〈祈り〉が、心の支えになっています。もうすぐ願いは叶うんだと……。


〈Soulmate〉へのメッセージ

 2006年3月、小学校1年から36年付き合ってきた友人が他界した。親に言えないことも、そいつにだけは話してきた。でも、もうこの世にいない。
“君はどうだい 俺はどうだい 今日も輝けているかい”


 幼馴染、学生時代の友人、そして仕事で出会った人たち、自分を取り巻くすべての人たちへの感謝の気持ちとこの楽曲が、心地よくシンクロします。
 これまでの人生の肯定と、これからの人生への希望。この楽曲が与えてくれるポジティビティーが好きです。


〈週末は嫌い〉へのメッセージ

 初めて聴いた時に、まったく私のことではないと思った。最近、そういう生き方もあったのかもしれない、と思った。
(いやでも、どこに?)
 週末にぼんやり雨の音を聞く余裕が欲しいと思った。手に入らなかったもの、憧憬、胸がしめつけられます。
 でも、後悔はしません。


〈天国のドアノブ〉へのメッセージ

 こんな時代だから、生きる宿題があまりに多くて、時代についていけない。
 パンタが日本のルー・リードのように、卓治は日本のニール・ヤングのように、詩は僕の今までの人生に似ている気がして仕方がありません。
 時代に取り残され、病気で半年会社を休職した時、先輩から卓治の曲を郵便で受け取った時、その先輩の気持ちが嬉しかった。良い先輩に感謝してます。そして、卓治に感謝してます。

                         ○

 最後に、ひさしぶりにライヴに来てくれた人からのメッセージも紹介しよう。


 84から92年頃までは、ずっとライヴに参加させてもらってました。あまり音楽には関心がないカミさんが、〈ひまわり〉や〈Passing Bell〉や〈いつか河を越えて〉を聞いて、「こんないい曲創る人なのに、なんで売れないの(毒舌なもんですみません)」と当時言ってたのを思い出します。
 〈祈り〉や〈Gallery〉も、今でも口ずさむほど好きな歌です。
 カミさんと約17年振りに観に行きます。カミさんは「今でも歌ってるんだ?」と相変わらず毒舌です。小山さんのライヴに昔の様に一緒に参加します。今でも輝き続ける歌たちをライヴで聞ける幸せを感じながら。


 25年前、それまで日本のロックはいまいちだと思っていた僕ですが、アルバム《NG!》を聞いて、あまりにストレートに響いてくる歌にどっぷりはまってしまって、一週間学校に行かずに家に閉じこもって聴いてました。
 おっさんになった今、リマスター版の《NG!》や《Passing》が出ていると聞いて、速攻で購入してみたら、やっぱり聴いてると泣けてくるんですよね。
 小山さん、まだまだがんばってくれてるので嬉しいです!!
 ずっと昔、ハートランドスタジオでのライヴを見て以来なので、ぜひ参加したいです。


 こんにちは。ず〜っと悩んでましたが、行くことに決めました! なぜかって……長年卓治のライヴに行けなかったので、私の知らない曲やファンの人たちばかりで、ついていけないかな……と思ってたからです。
 名古屋クアトロに通い、日進パワーステーションまで行っていた90〜97年。
 翌年から訳あって離島に移住して10年、帰ってきて2年経ちましたが、いまだ卓治のライブには行けてないのです。
 でも、やはり生ライヴに勝るものはないです! ずっと続けてくれたことに、本当に感謝です。長いブランクがありますが、参加させてください。まだ間に合うのでしょうか??


 デビューの頃からのあなたを知ってる私ですが、86年7月以降16年間は、あなたの活躍、活動を知らずに過ごしてきました。
 そして92年に再び小山卓治に帰ってきました。大阪のクアトロで見た〈真夜中のボードビル〉。スタンディングでギターを弾いて歌うあなたは最高に素敵でした。
 若かりし頃のあなたとまったく違った大人の卓治がいて、本当に痺れました。
 でもね、実は私は一番好きな歌は〈Night After Night〉なの。歌の中の女の子の“絶対的愛”が大好きなんです。
 最後に、〈負けないで〉は、命を救ってもらった歌なので、リクエストからはずせない歌だったけど……絶対にまた泣いちゃうから、今回はリクエストからはずしました。
 また会える日を楽しみに待っています。

                         ○

 メッセージは、書いてくれた人の人生のひとこまでもあった。
 それぞれの人生に様々なできごとがある。苦しんだり、立ち上がったり、突き進んだり。その時、僕の歌がかたわらにあったことは、僕にとって小さな奇跡だ。
 音楽にできることは少ししかないけれど、僕の歌が、ある人のある場面でのサウンドトラックになってくれれば、それに勝る幸せはないと思っている。
 本当にたくさんのメッセージをありがとう。


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(C)2009 Takuji Oyama