デビュー25周年を迎える2008年の初頭、僕は初期のアルバムを再発するためのマスタリングと、11枚目のアルバム《Circle Game》のレコーディングを、同時進行でやっていた。
そんな中で考えていたのは、春からの新しいツアーを、どういう形でやるかということだった。
以前からひとつアイデアがあった。それは、若い連中と一緒にバンドをやってみたいというもの。
それまで僕はずっと同世代のミュージシャンとバンドを組み、レコーディングをしてきた。昔はとんがった音を出していた友人たちも、年齢を重ねて、落ち着いた深みのある音を出すようになってきた。僕も同じように、作る歌が変化してきた。
それはとてもいい成長で、深化なんだが、一緒にプレイしていて、安定感は感じるが、スリリングさを感じなくなってきていた。
思いっきり世代の違う20代と一緒にバンドをやったら、どんなサウンドが生まれるだろう。それは賭けでもあるし、素敵な冒険に思えた。
スタッフから、「若くてとんがったバンドがいますよ」と聞き、見に行くことにした。25周年記念ライヴの直前だった。
新宿の小さなライヴハウス。お客さんもまばらな客席に向かって、必死に音楽を届けようとしているバンドがいた。それがFRUITS EXPLOSIONだった。お世辞にもうまいとは言えないが、短いステージの中で、何度かギラリと光る瞬間を見た。
若い連中と組む必須条件としてまず考えていたのは、ルックス(ステージング)だった。若いんだから、かっこよくなければ意味ない。そこは100点だった。
ギターはばっちりだが、リズムがちょっと重いな。多分ミディアムテンポの曲が得意なんだろうな。そんなことを思いながら、その日は会話を交わすこともなく帰った。
25周年記念ライヴは、一緒にレコーディングしたメンバーや、僕の長年の友人たちをゲストに招いて開催した。
その1ヶ月後、ステージに登場したのは、ギターのMercyと、ベースのYAMATO。26歳。僕との年齢差は24歳。僕がデビューした時、1歳だったことになる。
お客さんはきっとびっくりしただろうな。
この時は、僕のアコースティックギターに、アコースティックギターとベースというスタイルでのライヴだった。2人にしてみれば、ドラムがいないライヴは初めて、お客さんも自分たちも座ってやるのは初めて、Mercyにいたっては人前でアコギを弾くことすらほぼ初めてだった。
7曲ほどのセッションだったが、僕は大きな手応えを感じた。もちろんサウンドはまだ固まっていなくて、こんなにステージでドキドキするのはひさしぶりだった。そのドキドキは、すぐにワクワクに変わった。
その後、スタジオでマスタリング作業をしている時、「次はドラムも入れて、バンドスタイルでやってみよう」とスタッフと話した。
「じゃあバンド名を決めましょうよ」と言われ、何にしようかと思った時、ちょうど手に缶コーヒーのアロマブラックを持っていた。
「じゃあ、Aloma Black'sにしようぜ」
2人の初登場から2ヶ月半、ドラムのJACKも参加して、晴れてAloma Black'sの初ステージとして、《Circle Game》リリース記念ライヴを開催した。
実は、“Aloma Black"の綴りを間違えたまま告知していた。本当は“Aloma"ではなく“Aroma"だ。気づいたんだけど、「このままでいいや」と押し通すことにした。結果的に、唯一無二の名前になった、かな。
長年の相棒、サックスのSMILEYも参加し、こうしてAloma Black's + SMILEYとの長い航海が始まった。
当初は、荒削りにもほどがあるサウンドだったが、今まで僕が組んできたどのバンドにもないエッジがあった。
ミディアムテンポの〈夢の島〉、〈傷だらけの天使〉、〈Natural Woman〉などでは、彼ららしいグルーブが生まれた。
ほぼ四半世紀の世代の差があるシンガーの歌をちゃんと理解しろと言うのが、まずは難しい注文だっただろう。それでも、年末のソロライヴでは、バンドとしてのサウンドが生まれてきた。
2009年に入ると、Aloma Black'sとのツアーもひんぱんになった。札幌、大阪、名古屋、熊本でのバンドライヴも実現した。
僕はこのバンドで、今まで組んできたバンドでやり残したことを全部やろうと思った。
例えば〈Yellow Center Line〉。1995年に短い間だけ活動したバンドBACCHUSで、一度だけプレイした、アルバムアレンジと、僕がピアノの弾き語りでやるテイクをひとつにまとめたアレンジの再現。
例えば〈いつか河を越えて〉。センチメンタル・シティ・ロマンスの中野督夫さん、ベースのスティング宮本とやったアコースティックバージョンをバンドアレンジへ。
例えば〈談合坂パーキングエリア〉。アコギの弾き語りのイメージのままバンドスタイルへ。
例えば〈夕陽に泣きたい〉。オリジナルより1音キーを上げている。それだけで、イメージはガラリと変わる。
そんなプレイを、ひとつのバンドでやる。
Aloma Black'sには、僕がこれまで組んできたすべてのパーソナルバンドのエッセンスが入っている。
さらに、ライヴを続けていくことで、Aloma Black'sのオリジナルなサウンドを作り出すことも、大きなテーマだった。
例えば〈FILM GIRL〉。いかにも80年代的なリズムの“キメ”などのアレンジを、いったんすべて排除し、歌を裸にした上でアレンジを考えた。メンバーそれぞれがアプローチし、ひとつのうねりになって歌が生まれ変わった。
例えば〈朝まで待てない〉。アルバムアレンジを踏まえているが、このスリリングなプレイは、Aloma Black'sだけにしかできない。
他にも、彼らが作り出し、多分これから次のバンドでプレイする時に残っていくはずのフレーズもたくさん生まれた。
2010年に入った頃から、ギターのMercyとのアコースティックユニットでもツアーを回るようになった。
同時に僕は、バンドの幕切れをどこにするかを考え始めていた。ユニットとして組んだバンドのピークは、2年だと僕は思っている。それぞれがやりたいことを持っているメンバーが集まって、ひとつのサウンドを作る。そしていつかは、別の方向へ向かう。
終わりを定めない航海は、お互いの緊張感を鈍らせる。
翌年の春、3年を区切りとすることにした。そして、最後のライヴでは、今までのすべてを出し切り、ライヴレコーディングすることを決めた。
2011年5月1日。Aloma Black's + SMILEYとのラストライヴは、30曲をプレイし、3時間半に及んだ。Mercy、YAMATO、JACK、SMILEYが、今までで最高のプレイを聴かせてくれた。
Aloma Black's。
僕が今まで組んできたパーソナルバンドの中で、もっとも荒削りで、もっとも熱くて、もっとも僕が出したいサウンドを作れて、もっともご機嫌なバンドだった。
たったひとつ思い残すことは、彼らにもっと大きなステージを体験させてあげたかったことだ。
これから、彼らと僕は別々の道を歩んでいく。
29歳になって、彼らの道はいっそう険しくなっていくだろう。でも、音楽は裏切らない。3人が音楽を裏切らない限り。
音楽が見せてくれる夢は、ずっと遠くにある。だからこれからも、遠くを見定めながら自分たちのロックを探し続けてほしい。
最後にもう一度、彼らに「ありがとう」と伝えたい。
そのサウンドで、53歳のハートと腰を震わせてくれたことに、心から感謝している。
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