第02話
擦り切れた階段を地下1階まで降りたところにある、半分錆の浮いた鉄の扉を威勢よく開けて、パーティードレスの女が飛びこんできた。
女は店の中へ2、3歩踏みこむと、クルリとふり返り、端正な横顔には似合わない歯すっぱな声で叫んだ。
「あんたみたいにアンティークな人間は見たことないわ!」
女は手にぶら下げていたバレーのトーシューズを、開いたままのドアの向こうに投げこみ、乱暴にカウンターに座った。
「おお、シンデレラ・ゼルダ。世界一のバレリーナ!」
しまりのない顔をした男が、足元をふらつかせ、トーシューズをクルクルふり回しながら店に入ってきた。カウンターにたどり着くと、それほど広くもない店の中を見渡しながら男は言った。
「ここはどこだ? リッツホテルか?」
バーテンダーが静かに言った。
「れっきとしたもぐり酒場ですよ。店の名前はムーン・ドッグス・クラブ。カポネの店じゃないですがね」
女は男の顔も見ずに言った。
「あんたの稼ぎにゃお似合いよ」
「バーテン。極上のシャンペンを出してくれ。たった3日で書き飛ばした短編小説に、出版社がいい値をつけてくれたんだ」
「何言ってんのよ、たったあれっぽっちのはした金。昔の値段の半分じゃないの。いったいニューヨーク中の何件の店にいくらツケが溜まってると思ってるの? このアル中!」
「うるさい黙れ、ヒステリー女!」
「何よ、田舎者!」
「気まぐれ女!」
「成り上がり者!」
言いあっている2人の顔に、みるみる笑いが浮かび、しまいには大声で笑いだし、男は女を抱きしめながら言った。
「そして俺達、ニューヨークの王様だ!」
M-1
What a wonderful World
Louis Armstrong
バーテンダーがドンペリニヨンのコルクをポンと飛ばした。2人はグラスになみなみと注ぎ、勢いよくグラスを合わせた。まだクスクス笑っている。
女がグラスを持ったまま立ちあがって言った。
「ねえスコット、新しいステップを覚えたのよ。見てて」
女は狭いフロアでクルクル回りだした。男はシャンペンをあおりながら女を眺め、それからバーテンダーをチラリと見て言った。
「うちのワイフは世界一さ」
「最新のステップですね、ミスター・フィッツジェラルド」
男は目を丸くしてしばらくバーテンダーを見つめ、それから大声で笑いだした。女はステップを止め、男をふり返って顔をゆがめた。
「何がおかしいの?」
「ばれちまったよ、ゼルダ。この店でもツケはききそうにないな」
突然、女がグラスをフロアに叩きつけた。
「私がアバズレですって?」
男は慌てて立ちあがった。
「そんなこと言ってやしないよ」
「2人で笑ってたのね? 私がはしたない女だって言ってたのね?」
女の目にみるみる涙が浮かんだ。
「私は南部の生まれなのよ! あんたみたいな北部の不良といるだけで、こっちが臭くなっちまうわ!」
女は言い捨てると、店を飛びだした。
M-2
16 Shells From A Therty-Ought-Six
Tom Waits
男はあきらめたように首を振り、女が忘れていったトーシューズをもてあそび始めた。バーテンダーがグラスにシャンペンを注ぎ足した。男がつぶやく。
「変わっちまった。妻だけじゃなく、いろんなことが。そのほとんどが悪い方に」
バーテンダーが静かに言った。
「パーティーはもう終わりですか?」
「パーティーはこの10年続きっぱなしだ。仮面舞踏会でつけた仮面が、いつの間にか取れなくなってしまった。バーテン。いったい今は、何年の何月だ?」
「1929年11月。ラジオを聞かなかったんですか? 株が大暴落をやらかしたんですよ。10年のパーティーも、もう終わりです」
男は乾いた声で笑いだした。
「アメリカも俺もすべてを手に入れてしまったんだ。後は失うだけさ。いろんなものを失って、思い出だけが残る。それも最悪のな」
「これからはアスピリンが手放せませんよ」
「バーテン。乾杯だ。愚かなアメリカのために。そして世界中のギャツビーのために」
バーテンダーと男はグラスを合わせた。
「これからどうなさるんです、ミスター・フィッツジェラルド?」
「長編を書くのさ。俺はもともとあんなできの悪いお手軽な短編を書くような男じゃないんだ。長編を書くんだ。構想は、もうこの頭の中にちゃんとある。あのウスノロの評論家どもに、もうひと泡吹かせてやる。……それとも、どうするって今夜のことか? 今夜は……立ちあがって、ゼルダを追いかけるのさ」
男はスツールを降りた。
「なぜこの店に来た、スコット?」
男は寂しげに笑いながら言った。
「さっきも言っただろ? ニューヨーク中探しても、俺達に気持ちよく酒を出してくれる店なんて、もうないのさ」
男はトーシューズをぶら下げ、ゆっくりと店を出ていった。
M-3
LIFE VEST UNDER YOUR SEAT
小山卓治
歩けもせずに走りだして
泣けもしないで笑ってる
造りもせずにぶち壊し
自分とは違う誰かを演じ
この街からあふれだす
メッセージを受けとめながら
今日を生きる手がかり探してる
LIFE VEST UNDER YOUR SEAT
自分しか愛せないおまえ
傷つく前に身をかわす
生きることさえもシミュレーション
本当に赤い血が流れてるのかい
この街からあふれだす
メッセージを受けとめながら
今日を生きる手がかり探してる
LIFE VEST UNDER YOUR SEAT
-NOTES-
「楽園のこちら側(1920)」「偉大なるギャツビー(1925)」などで一世を風靡したF・スコット・フィッツジェラルドは、時代の寵児にのし上がり、繁栄の1920年代をアメリカと共に生きたが、1930年に妻ゼルダが精神分裂症で入院、本人もアルコールに溺れ、次の長編「夜はやさし(1934)」も不評のまま、1940年に愛人のアパートメントで心臓発作のため死去。44歳だった。
(c)1989 Takuji Oyama |