第03話
1952年、ニューヨークを出航したクイーンエリザベス号は、大西洋の波を悠々とまたぎながらヨーロッパへの旅を続けている。船にはたくさんの金持ちと、少数のそうでないものと、そして1人の傷心の老人が乗りこんでいた。
「いらっしゃいませ」
船内レストランのひとつ下の階にある小さなバーのドアを開けたのは、白髪の小柄な老人と、美しい黒髪の若い女性だった。2人は手を取りあい、寄り添うようにしてカウンターに座った。老人は座るなり眉をひそめ、バーテンダーの顔をにらみつけて言った。
「ムーン・ドッグス・クラブか。フン、いかにもアメリカ的だ。この女王の船には似合わんな。君、この騒がしいジャズを止めてくれんか」
バーテンダーは店内に低く流れていた音楽を止めてから言った。
「ご注文は?」
「この子にはマティーニを。私はワインをもらおうか」
「今年のボジョレ・ヌーボーがございますが」
「ああ、それでいい。それから言っとくが、サインはしないぞ。写真も駄目だ」
バーテンダーはワインを抜き、女性にマティーニを作った。女性は一口飲み、バーテンダーに笑いかけながら言った。
「ごめんなさい。チャーリーはひどくご機嫌が悪いの」
「いいんですよ。お父さまのぶしつけな態度も、あなたの美しい髪に免じて許してさしあげましょう」
「ありがとう。でも彼は父ではなくて、私の夫なの。36歳違いのね」
「これは失礼しました。お詫びに私の大好きな曲をおかけしますよ」
バーテンダーはカウンターの奥にある古ぼけたターンテーブルに一枚のレコードを乗せ、針を置いた。音楽が流れだすと、老人はふとワイングラスから顔を上げ、口元をほころばせてバーテンダーに言った。
「これは……私の曲だ」
「そうですよ。あなたの最新のサウンドトラックですよ。ミスター・チャップリン」
M-1
Limelight
Charlie Chaplin
「ニューヨークのプレミアショーは大盛況でしたね。ミスター・チャップリン」
バーテンダーは老人のグラスにワインを注ぎながら言った。
「ああ。“ライムライト”は私の最高の自信作だ」
老人はそう言いながらグラスを口に運び、それから少し声を落としてつけ加えた。
「しかし、どうやら時代の風は、私にとっては向かい風になってきているようだ」
カウンターの上に置かれたボトルの中のワインが少し揺れている。店の壁についている丸い窓のガラスの向こうを、雨粒が斜めに走りはじめた。窓の外には真っ暗な海が黒い口をぽっかりと開けるように広がっている。老人は不安げに聞いた。
「嵐の中へ入るのかね?」
「ご心配なく。ちょっとした低気圧を横切るだけです。揺れはすぐに収まりますよ。この船は、今までのあなたの人生みたいに、ちょっとくらいのことではびくともしませんよ」
老人はグラスを置くと軽くため息をつき、そしてうつむいた。老人の目にうっすらと涙が浮かんでいた。隣に寄り添う女性は老人の手を握り、その肩に顔を寄せて言った。
「かわいそうなチャーリー。こんな形でアメリカに裏切られるなんて」
老人は誰に言うともなく、つぶやくように言った。
「私が今までに作った映画、“独裁者”も“殺人狂時代”も、そして今度の“ライムライト”だって、大衆は拍手をし、喜んでくれた。だが、あの偏執狂の移民局とヒステリックな新聞記者どもが、私に共産主義者のレッテルを貼りつけてしまった。そして私の最も愛した観客の笑顔を、私から奪いとってしまったんだ。私はもう2度とアメリカの土を踏むことができなくなった。アメリカは私のことを憎んでいるんだ。私も、今ではアメリカを憎んでしまっている」
船の揺れが少し激しくなってきた。棚の上で、グラスが音をたて始めた。
M-2
Englishman In New York
Sting
3人はそれぞれの想いを抱いて、船にぶつかる波の低いうなり声を聞いていた。やがてバーテンダーが口を開いた。
「ミスター・チャップリン。去ってしまった土地のことよりも、これから向かう土地の話をしませんか? あと1週間でヨーロッパです。確かロンドンは生まれ故郷ですよね?」
老人は顔を上げ、ホッとしたように笑顔を取り戻して言った。
「ああ、そうだ。20年振りだよ。麗しのスウィンギング・ロンドン。そういえば私が子供の頃、ロンドンの郊外に住んでいた時、面白い場面に出会ったんだ。聞いてくれるかね?」
「ええ、もちろん」
「その頃の私は、羊の屠殺場のすぐ横にあるみすぼらしい家に住んでいた。ある日、1匹の羊が逃げだしてしまった。必死で逃げ回る羊と、それを捕まえようとやっきになって追い回す大人達。両方とも真剣そのものだ。そしてそれを回りで見ながら大喜びで笑い転げている私達。とうとう羊は捕まえられ、連れ去られていくその後ろ姿を見た時、私は初めて気がついた。回りの人々を大笑いさせてくれたドタバタ喜劇の裏には、殺される運命の羊の悲劇があったんだ。私は映画を作る時、いつもこのことを思っている。人生には喜劇と悲劇がいつも裏表で存在している。私は喜劇を演じ、その裏にある悲劇も一緒に演じる」
老人はグラスの底に少し残ったワインを飲み干した。船の揺れはいつの間にか収まり、波の音も聞こえなくなっていた。
「さて、今夜は少し飲み過ぎたようだ。さあウーナ、子供達の所へ戻ろうか」
バーテンダーは老人の横顔に向かって低く言った。
「チャーリー。なぜこの店に?」
老人は立ちあがり、店の中をゆっくり見渡し、薄く笑いながら言った。
「この船の中で、ここにだけアメリカの匂いがしたんだ。そう、結局のところ、私はアメリカを愛しているんだろうな」
老人は女性の肩を抱き、ゆっくりとドアへ向かった。そしてドアを開けながらふり返り、つぶやいた。
「ムーン・ドッグス・クラブか。フン。いかにもアメリカ的だ」
M-3
Shadow Land
小山卓治
この街で夢を見つけようとした
俺達少しだけ遅刻だったらしい
そんなに哀しく目をそらさないで
今夜は自分らしさを信じたいから
俺達もう天使じゃないけど
そんなことは気にしちゃいけない
my love 孤独な夜を
my love いくつ数えれば
my love 本当の夜に
my love たどり着けるのだろう
-NOTES-
アメリカを追われたチャップリンは、その後も精力的に作品を生み続けた。1972年、20年ぶりにアメリカに渡り、アカデミー賞特別 功労賞を受賞。1977年のクリスマス、スイスのローザンヌで88歳の生涯を閉じた。
*「チャップリン自伝」(新潮社)を参照しました
(c)1989 Takuji Oyama |