雑居ビルの5階にある仕事場を出て、腹立ちまぎれにドアを力一杯閉めた。その音は薄暗い廊下と狭い階段に反響し、鈍い余韻を残した。 ちきしょう、今何時だと思ってんだ。退社時間はもうたっぷり2時間も前だ。 階段を降りる。4階はキャバレーで、その下も全部酒場だ。そのせいで4階から下の階段には赤い絨毯が敷いてある。酔っぱらいの靴に踏まれ続けた絨毯は、もうとっくに赤ではなくなっているが。 外へ出ると、切るような12月の風がいきなり頬を叩く。ジャケットのえりを合わせてポケットに両手を突っこみ、背中を丸めて歩きだす。乱雑に取りつけられたイルミネーションがキラキラ光り、あちらこちらからクリスマスソングが幾重にも重なって流れだしてくる。 輝かしい80年代か。 重く垂れこめた霧の中にいるようだった10年が終わり、誰もが新しい始まりを予感していた80年代。その最初の年もじきに終わりだ。何も始まらない、代わり映えしない、70年代の余波がもつれこんだような1年だった。 俺は春に大学に退学届けを出し、バイトを転々と変わりながらの暮らしを始めた。今まで一緒になって馬鹿騒ぎしていた友人たちとは、だんだん会わなくなっていった。社会へ出る一歩手前の最後の自由を楽しんでいるようなやつらとは、会いたくなかった。かといって、俺がちゃんとした社会人になったわけでもない。 クリスマスや忘年会のシーズンにはまだ早いのに、真っ赤な顔で肩を組んでいるサラリーマンたちや、目一杯めかしこんで歩いているカップルが目につく。俺はその真ん中を、ポケットの小銭をチャラチャラいわせながら歩く。 バスは空いていた。一番後ろの席にふんぞり返って座る。窓から街をふり返ると、パーティーは最高潮だ。鼻で笑ってみる。みじめになって目をつぶる。 ネオンが見えなくなると、バスは河を渡り、静かな住宅街へと向かう。アナウンスの声が急に冷たく聞こえだす。 「次は渡瀬三丁目です。お降りの方はボタンを押してお知らせください」 三叉路の手前でバスを降り、自動販売機で缶ビールを買う。冷たい缶を両手で持ち替えながら歩く。どこからか小さく〈ホワイト・クリスマス〉が聞こえたような気がした。 アパートのどの窓にも、明かりひとつ点いていない。鉄の階段をカンカンと音をたてて上り、202号室のドアノブに鍵を差しこむ。ドアはきしむような音をたてて開いた。壁のスイッチを手探りし、電気を点ける。ガランとした殺風景な部屋が俺を迎え入れた。バスケットシューズを脱ぐ。淀んだ空気を追い出すために窓を開ける。道の向こうの屋根すれすれの所に、ぽっかりと間の抜けた満月が浮かんでいる。 階段を荒っぽく上ってくる音がする。足音は俺の部屋の前で止まり、乱暴にドアをノックする。俺は缶ビールの栓を抜きながらドアを開ける。マコトが立っていた。手には酒のボトルをさげている。俺はビールをひと口飲んで言う。 「ひさしぶりだな」 マコトの唇のはしが歪んだ。 「どうした?」 マコトは肩でひとつ息をつくと、低い声で言う。 「ジョンが撃たれた」 「……ジョン……レノンが?」 「そうだ。さっきのニュースでやってた」 「死んだのか?」 「らしい」 マコトは部屋に入るとどっかり座りこみ、テーブルの上に酒を置いた。安物のバーボンだった。 「どこかでニュースをやってるかもしれない」 俺はラジオのスイッチを入れる。〈サンタクロース・イズ・カミング・トゥ・タウン〉。舌を鳴らして他のチャンネルを探す。 〈スタンド・バイ・ミー〉のイントロが流れだした。俺は手を止める。マコトは座ったまま黙りこんでいる。曲が終わると、DJのくぐもった声が流れだした。 「ニューヨークのダコタ・ハウスの前で、元ビートルズのジョン・レノンがピストルで撃たれました。ジョンは救急車で運ばれる途中で死亡した模様です。犯人はマイク・チャップマンという男で――」 俺は立ち上がり、冷蔵庫から氷を出して2個のグラスに入れる。マコトはバーボンの封を開けて酒を注ぐ。ラジオは、ジョンの〈ハッピー・クリスマス〉を歌いだした。 俺たちは向かい合ってグラスを取る。マコトが言う。 「ニューヨークはどっちだ?」 「多分、あっちだな」 窓の方を指さすと、月が青白くかすんでいる。俺たちは月に向かってグラスを上げた。 ジョンとヨーコの声が静かに流れる。 ――戦争は終わる。あなたがそれを望むなら 俺はつぶやいた。 「これが70年代のしめくくりってわけか」 マコトはグイとバーボンをあおり、グラスに酒を注ぎ足す。立ち上がり、窓にもたれて月を眺める。 ジョンとヨーコの声に、子供たちの歌声が重なっていく。 ――戦争は終わる。あなたがそれを望むなら マコトがボソリとつぶやく。 「で? 元気だったのか?」 「まあな」 「そうは見えねえな」 ラジオは陽気な音楽を奏で始めた。スイッチを切る。静けさが、寒さを思い出させた。俺は灰皿にあったシケモクをくわえる。 マコトがふり返り、俺を見下ろして言う。 「おまえの方が先に世間に出たからって、別に偉いってわけじゃない」 俺はマコトをにらみ上げる。マコトは俺を見、バーボンをひと口飲んで言う。 「サチコと別れてから、おまえも落ち目だな。あの新しい女、おまえには合わねえよ」 「いい女の方が連れて歩くにはいいだろ」 「美人といい女とは別だ。分かってるくせに遠回りすんの、おまえの悪い癖だ」 「うるせえ」 窓の外から、数人の笑い合う声が聞こえてきた。何言ってんだよおまえ。ねえどこに行くのよ。朝まで飲むんだろ。ちょっとやめてってば。 マコトはポケットからロングピースを取りだし、俺に放った。俺は1本取りだしてくわえる。 「40歳だったとさ」 と、マコトが言う。 「誰が?」 「ジョン。あと何年ある? 俺たちには」 どれだけの時間があっても、追いつけない。もう一生、追いつけない。
*この文章は「微熱夜 '87」に掲載されたものに加筆しました。
第2話へ
(c)2003 Takuji Oyama
|