微かなノックだった。その遠慮がちな湿った音は、アーリータイムスを注いだグラスの氷が鳴らす軽い音に重なった。時計を見る。グラスを置く。立ち上がってドアへ向かう。息を潜めるような気配を、薄いドアの外に感じた。そこに誰が立っているのか分かった。俺は一度部屋の中をふり返る。見せたくないようなものはなかった。鍵を開け、ドアを押す。 薄暗い廊下、部屋からの淡い光がサチコの姿の半分を照らした。うつむいたその頬は、いつもグラス2杯で赤くなる時のままに、染まっていた。俺はドアを開け放し、体を引く。サチコは部屋の中をそっとのぞき、つま先で廊下をトントンと何度か叩き、それからドアを抜け、壁に寄りかかって俺を見た。笑おうとし、眉をひそめてうつむいた。俺は突っ立ったまま言葉を探した。間抜けな言葉が口からこぼれた。 「飲んでたんだ」 「……うん」 花柄のフレアスカートが躊躇して揺れる。サチコはドアの外へ視線を移して小さく言った。 「傘がね」 「ん?」 「……あるでしょ?」 サチコの薄紫の傘は、3ヶ月前から部屋の隅に置きっぱなしになっていた。 「雨が降りそうだったから……」 そう言ってサチコは唇を噛む。 「入んなよ」 俺はサチコを閉じこめるようにドアを閉める。 グラスを出し、薄い水割りを作り、テーブルの上に置く。サチコは靴を脱ぎ、俺のバスケットシューズの横に並べた。その靴を脱ぐ姿がなまめかしく、俺は目を逸らした。サチコは俺から少し離れて座り、グラスを手で包んでつぶやいた。 「ありがとう」 俺はグラスを少し上げてひと口飲む。サチコも軽く口をつけ、ようやくフッと息を吐いた。俺はまた言葉を探しながら煙草に火を点ける。今度はサチコが先に見つけた。 「元気だった?」 「うん」 「変わらないね」 「変わらないよ」 「ここも」 そう言って部屋の中を見回すサチコに、窓際に置かれた真新しいブルーの花瓶が見えないはずはなかった。 短い深呼吸で、サチコは笑顔をしぼり出して言う。 「やだなあ」 「え?」 「そんな辛そうな顔しないで」 「辛そうな顔、してるか?」 「うん、してる」 俺たちは少しずつ笑った。俺は立ち上がり、グラスに酒を注ぐ。沈んでいた空気がフワリと動いた。背中にサチコの声。 「うまくやってるの?」 それが新しい彼女とのことだとは分かったが、ふり返って見たサチコの顔は澄んでいた。 「まあね」 俺は座り直し、ひと口飲む。2人の日々は、はるか遠い所にあった。 「で、そっちは?」 「……うん」 「何だよ、それ」 軽口ですます夜にできるはずなのに、サチコは嘘が下手だった。 「この間、スキーに連れて行ってくれたんだ。今度、お友達を誘って私のお誕生会をしてくれるって」 「楽しくやってんだな」 「うん」 ちっとも楽しそうじゃなかった。 「でも……」 「でも?」 サチコの視線が浮く。窓際の花瓶をぼんやり見ているようだった。 「なんか、つまんない。私、そういうのがそんなに好きっていうわけじゃないみたい」 サチコの手がグラスを取る。その指先を見た。グラスに口をつける。微かに動く喉元を見た。目をつぶる。闇に浮かんだのは、羞恥しながら開かれていくサチコの姿態だった。奔放に喜びを感受するもうひとつの体も見えた。目を開ける。腕を延ばせば届く距離にサチコはいた。踏み出さなければ届かない場所にサチコはいた。 サチコがグラスをテーブルに置く小さな音が、俺を決壊させた。 サチコの肩を抱き、その体を自分の胸に押しこんだ。横向きに崩れるように、サチコは俺にとらえられた。 「駄目だよ」 その声は低かった。頬をつかまえ、唇を探す。淡いバーボンの味。それはすぐに熱いぬくもりで濡れた。頬を伝ってきた涙だった。俺は涙をむさぼる。嗚咽が吐息に変わる。横たえようと肩を押す。強い力が俺の背中に伝わる。サチコの両腕が俺の背中に周り、シャツをつかむ。顔を俺の胸に埋める。拒絶の抱擁だった。俺は身動きを止められる。荒い息と涙の熱が、シャツの上から胸に伝わってくる。温かい哀しみだった。 「このままで……」 サチコの声が、胸で曇って響く。 サチコの頭に手を置く。こらえようとしている嗚咽が伝わってくる。渦巻いていた熱情は消えた。サチコの頭をそっと撫で、つぶやいた。 「戻れないね」 サチコの頭が、胸の中で何度かうなずいた。 俺たちは、熱が消えてしまうまでそうしていた。 サチコの腕の力がゆるむ。シャツで涙を拭いた。 「ついでに鼻水も拭けよ」 サチコはクスリと笑い、顔を離して前髪を直した。てのひらでサチコの頬を包む。サチコは俺を見上げ、それからうつむいて微笑み言った。 「ごめんね」 「ん?」 「シャツ……」 「いいよ」 サチコの手が俺のてのひらを取り、頬から外した。 「じゃあ……行くね」 「ああ」 サチコは俺に背中を向けて立ち上がり、靴を履く。俺はドアを開けた。冷めた外気が足元をすり抜けた。 横顔のサチコが言った。 「傘……」 「ん?」 「いらなかったね」 数個の星とおぼろげな三日月が夜空にあった。俺とサチコは、ドアの前で並んでそれを見上げた。
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(c)2003 Takuji Oyama
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