第06話
汚れたバスケットシューズを履いて 
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 夜明けだ。漆黒の空が群青に変わり、紫から茜色へと少しずつ少しずつ色を変えていくのを、さっきからずっと眺めている。
 建物の輪郭が空にくっきりと見えるようになると、近くの電信柱の上から、何かを警戒するようなカラスの尖った鳴き声が聞こえ始める。それにスズメの声がまばらに重なる。
 俺は裏門の横にある小さな守衛室の前に立ち、たまに出入りする人たちの通行証を確認する。
 大型トラックがやってきて、軽くクラクションを鳴らす。俺は腕を回して誘導する。トラックは門を抜けて俺の前を通り、奥の駐車場へと入っていく。
 守衛室の中にある時計をチラリと見る。そろそろ終わりだ。立ちっぱなしでこった首と腕を回してボキボキいわせ、でっかいあくびをひとつ。
 俺と交代するバイトの男がやってきた。腕章を外してそいつに渡し、建物に入り、冷え切った階段を上る。経理の部屋に入ると、寝ぼけ眼のおっさんが俺を上目づかいに見て言う。
「ああ、君は今日で最後だったね。どうもお疲れさん」
 バイト料を受け取り、建物を出て、裏門を抜けて歩きだす。まだ街は動き始めていない。
 ふと足がつんのめる。腰がフワフワしている。解き放たれたのか、根っ子をなくしてしまったのか。
 昨日の夜、部屋の荷物をまとめた。いらないものを全部捨てたら、小さなバッグひとつに収まった。後はそれを取りに行って、大家に鍵を返しに行くだけだ。
 犬と一緒にジョギングする男、新聞配達の自転車とすれ違う。始発電車の音が、カタンカタンと微かに聞こえてくる。
 大学の脇の道まで来て、近道のために塀をよじ登って乗り越える。だだっ広いグラウンドを歩く。空が広い。足元で微かに土埃が舞う。グラウンドを縁取る芝生の上を歩き、金網のフェンスの横を通り、ペンキの剥げたベンチの脇を抜ける。
 誰かが忘れたテニスボールが転がっている。拾い上げ、グラウンドに向かって力一杯投げる。テニスボールは空に弧を描き、遠くで何度かバウンドし、転がって小さな点になる。
 背後から強い光が射してきた。見ると、顔を出したばかりの朝焼けが、学生食堂の大きなガラス窓に反射し、射抜くようにこちらへ射してきている。目を細めて光の方へ歩く。窓の中をのぞいてみる。薄暗い中にたくさんのテーブルと椅子が、ガランと並んでいる。自動販売機の小さな赤い明かりがポツリポツリと並ぶのが見える。
 窓に背を持たせかけ、ポケットの煙草を取りだしてくわえる。最後の1本で、パッケージをくしゃりと握りつぶして放る。火を点け、煙が光の中にフワリと広がるのを見上げる。
 数日前の夜、サチコから電話が入った。さっぱりとしたすずやかな口調だった。
「結婚するんだ」
「そう」
「ねえ、おめでとうは?」
「あ、ごめん。おめでとう」
「ありがとう」
 サチコは笑って、俺に聞いた。
「これからどうするか、もう決めたの?」
「俺? ここを出てく」
「そう。いつかはそうすると思ってた」
 言い忘れたことがたくさんあったような気がしたが、言わなくてもいいことばかりのような気もした。
「がんばってね」
「サチコもな」
「うん、がんばる」
 受話器を置いた音が部屋に残り、自分の言った「おめでとう」が本物なのかどうか考え、本物だったと思った。
 どこからか迷いこんだ野良犬が、学生食堂の前をのらくらと歩き、俺に一瞥を垂れて歩き去る。
 マコトはこう言った。
「行ってこいよ。おまえはろくでもないやつだけど、それを貫けば、もしかしたら何かやらかすかもしれないな」
「やらかすさ」
「これだけは約束しろよ」
「何だ」
「一発当てたら俺から土地を買え。安くしとくぞ」
 また食堂の窓の中をのぞく。奥に薄暗い厨房が見える。でっかい調理器具が鈍く光っている。
 そこにトレイを持って並び、いつもメニューの中で一番安いカレーを注文し、馬鹿話やでっかい計画で唾を飛ばし合っていたケンジと俺の姿が、誰もいないテーブルの片隅に浮かぶ。
 ケンジはただ「そうか」とつぶやき、羨望と哀れみの笑顔を見せた。何も言ってくれないことが嬉しかった。言い出せばまた、互いを傷つけることを口走ってしまったかもしれない。
 ガラスに額をつける。ひんやりとした感触。目を閉じる。
 微笑みも同情もいらない。ぬくもりも思い出もいらない。きずなも安らぎもいらない。優しさもなぐさめもいらない。幸せもいつくしみもいらない。
 何が残る?
「俺だ!」
 ガラスを震わせた声は、ただ自分の耳にだけ届き、消えていった。
 行こう。
 校舎の間の砂利道を歩き、黒ずんだ胸像の横を過ぎる。
 正門を抜けると、銀杏並木が続く広くてまっすぐな道へ出る。そのちょうど正面に、あっけらかんと太陽が昇っていく。アスファルトを踏む自分の足音だけが聞こえる。1本、また1本と、並木が後ろへ遠ざかっていく。
 ふと、高い笑い声が耳をかすめた。足が止まる。ふり返る。誰もいない。
 カラスのけたたましい鳴き声が、あざ笑う。
「ちきしょう!」
 俺は汚れたバスケットシューズで、大地を蹴り上げた。


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