第02話
汚れたバスケットシューズを履いて 
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 「じゃあねえ!」「ご馳走様!」
 店を出るとすぐに、クスクス笑いながら小走りに去っていった2人の女の背中を、俺たちは見送った。ケンジは釣り銭を財布にしまいながら、俺は火をつけていない煙草をくわえたまま、顔を見合わせる。苦笑い。
「まったく、おまえと組むとろくなことにならねえ」
 ケンジが言って歩きだす。
「次があるって」
 俺は2人の女に電話番号を書かせた紙切れをヒラヒラとケンジに見せる。
 路地の人ごみを縫い、醤油の焼ける匂いを嗅ぎ、笑いさざめく女たちの横顔をのぞき、ゲームセンターからあふれ出る金属音に追い立てられ、俺たちは3車線の通りに出る。風が足元をすくい上げ、ケンジのブルゾンと俺のシャツを膨らませる。
 ケンジがボソリとつぶやく。
「あの女、“ジャック・ニコルソンって誰?”はねえよなあ」
「しょうがねえだろ、ジョージ・ハリスンも知らなかったんだから。それにしてもおまえ、口説き方間違ってるよ」
「何がだよ」
「今時、ニコルソンの髪型だってアピールしてもなあ。おまえの場合、現実がなあ」
「あ。おまえ、言うかそれを」
 ケンジは広い額をてのひらで撫でてから、俺の肩をこぶしで殴った。
「おまえだってよ、“中森明菜に似てるよね”はねえだろ」
「ごめん、いくら何でも言い過ぎた。全然似てなかった」
 雑居ビルの建ち並ぶ歩道を歩く。店々からこぼれ出るひずんだBGMが、歩くごとに重なりながら変わっていく。流れる人ごみの中に黒のスーツの男が2人、所在なげに辺りを見回している。その間をすり抜ける。スクランブル交差点を渡ってきた人の渦が押し寄せ、俺たちは少し離れ、それからまた肩を並べる。
「ちょっと待っててくれ」
 俺は言って、そこにあった電話ボックスに入る。そらで憶えている番号を押す。ガラスの向こう、電話ボックスの青白い明かりを横顔に浴びるケンジが、煙草に火を点ける。受話器に向かい在宅かどうかをたずね、いないと聞いて受話器を置く。外へ出て歩きだす俺に並んで、ケンジも歩きだす。
 バス停の前にあるビルの入り口の階段に、俺は腰を下ろした。ケンジはブラブラと停留所の時刻表を眺め、俺をふり返る。
「行くのか?」
「ああ。今日行かなきゃクビかも」
「何時まで?」
「朝の7時」
「不毛な青春だ」
「うるせえや」
「顔、赤いぞ。いいのか?」
「バレやしねえよ。つっ立ってるだけなんだから」
 ケンジは俺の横に、よいしょと腰を下ろす。
「よいしょって言うな」
 ケンジは薄笑いで煙草を投げる。
「なーんかさあ、疲れんだよなあ最近」
 俺たちの前を、コツコツとパンプスを鳴らす女の足が通り過ぎていく。見るともなくそれを追う。バスが来て停まる。
「あれか?」
 俺は首を振って、つぶやく。
「ま、あれでもいいんだけどな」
 ケンジはバスの行き先を読み、言う。
「全然違うじゃねえかよ」
 信号に引っかかった車の渋滞が、通りに並ぶ。開け放した車の窓から漏れる湿った低音が、しつこくリズムを刻む。
 ケンジは両手を広げて大あくびをし、あくびの終わりにつけ足したように言う。
「愛とか、青春とか」
「あ?」
「夢とか、希望とか……ねえよなあ」
 頬杖をついて俺も言う。
「そういや、最近見かけねえなあ」
「さっきの店で、でっかい愛と青春を引っかけそこねた」
「確かに。あれはでかかったな」
 女のTシャツから無闇にのぞく深い胸元を思い出して笑う。ケンジが俺を小突く。俺はひじでケンジをつついて言う。
「夢ならあるだろ。俺たちの」
 ケンジが答える。バイクが2台、けたたましく通過してケンジの声を消す。
「え?」
 ケンジは横顔を見せて口を閉ざし、それから言う。
「おまえの夢だ。俺のじゃない」
 ふいに音が消える。
 俺はケンジのブルゾンのえりにつかみかかる。ケンジは俺をチラリと見、目を逸らす。俺は手をふりしぼる。
 そして突き放す。
 黒い人影がいくつもいくつも目の前を通り過ぎていく。嗚咽のようなクラクションが響き、誰かの罵声と悲鳴が聞こえて遠ざかる。
「なんで今頃になって、そんなこと言うんだ」
「俺も最近気がついたんだよ」
「ふざけんな」
 道路の向こう側のパチンコ屋のネオンが、点滅と行ったり来たりをくり返す。
 ケンジの声が、耳元で鈍く鳴る。
「夢ぐらい、1人で見ろ」
 赤錆びた匂いが鼻をつく。並んだ車のウィンカーがオレンジの行列になり、信号に促されてゆるゆると流れ始める。
「じゃな」
 ケンジが立ち上がる。俺はその視線を感じながら、消えるのを待つ。足音は遠ざかり、すぐに雑踏に紛れた。
 また頬杖をつく。
 俺の乗るバスが停留所に停まる。若い女が2人と老人が1人降り、男が2人乗りこみ、バスは出ていった。
 錆の浮いたベンチに書いてある文字を読む。アスファルトの割れ目から雑草が生えている。バスケットシューズのひもが解けかかっているのに気づき、結び直す。
 顔を上げる。ビルの屋上の広告塔が、赤く夜空を染めている。外壁に作られたエレベーターが、最上階からゆっくりと下りてきて、地下に吸いこまれていくのを眺める。
 いつもの街だった。



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