負けないで
 | 1. 花を育てたことがあるかい | 2 . 夜を行く | 3 . そして僕は部屋を出た | 4 . さよなら恋人 |
 | 5 . 前夜 | 6 . 天使の歌う朝 | 7 . 負けないで | 8 . 孤独のゲーム | 9 . 祈り |


 君は僕に“勝って”とは言わないでくれた。ただ一言“負けないで”と言ってくれた。それがとても嬉しかった。その時の君の表情や声を、はっきりと憶えている。低い声だった。暖かい目だった。僕の胸に添えられた君のてのひらから溢れでる勇気が、僕の心を満たしていった。僕は今、旅の途上でそんな君のことを思い出している。

 遠い昔、僕がこの街に降り立った時、僕は自分の過去を小さなバッグひとつにまとめてきた。そこにはいくつかのゲームでの勝利の印の王冠が入っていた。それまでに僕が手にしたものの中で、必要と思われるものはそれだけしかなかった。過去などいらなかった。僕は自分が勝ち続ける男だと信じていたから。大抵の勝負で僕は勝ちをおさめた。なぜなら、僕は勝負を前にして、勝算がある時は進み、そうでない時はその勝負を避けて通ったからだ。僕はどうしようもなく身勝手で、自分本位な男だった。そんな自分を誇らしくも思うような、つまらない男だった。
 僕はこの街の勝負に参加した。頂上を目指すためにひとつの世界を選び、そこへ強引に割りこんだ。厚顔無恥に振る舞い、傲慢な主張を始めた。最初のうちは誰もがそんな僕を面白がり、舞台の中央へと背中を押し上げた。僕は有頂天で舞いあがり、空を飛ぶ勢いで絵空事を口にした。できもしない約束まで取り交わした。僕の足は地面に根を降ろすこともなく宙を舞った。
 あっという間の出来事だった。僕は勝利をおさめ、その勝利を盾に次の勝負に参加した。だけど資産も土台も持たず、口先だけのジョークで渡りきれるほど、そこでのルールは甘くはなかった。勝利感は四散し、僕はすべてからとり残された。僕は負けるということを初めて知った。
 その時、僕は君に出会った。君はこう言ってくれた。“負けないで”と。

 負けることなど無意味だと僕はずっと信じていた。勝ち続けなければいけないと。だが何のために? 誰のために? 疲れ果てて座りこんだ僕の口から漏れたそんな疑問に、君はただほほえみ、僕の胸に手を置いてくれた。

 長い長い時間が過ぎ、僕は負けることにも意味があることを初めて知った。勝つのは難しい。なぜなら勝つためには何かの対象がいる。誰かや何かに勝とうとする。どこまで行ってもそれは終わらない。人は決して勝つことはない。でも、負けないでいることならできる。自分にさえ負けなければ、人は決して負けないんだ。
 その時から、僕にはやっと聞こえ始めた。たくさんの人々の暖かい声が。負けないで、と僕を励ましてくれていた無償のささやきが。
 僕は君の許を出発し、新しい勝負に参加した。生まれ変わった男として。もちろん完璧な人間などいない。自分が分からなくなる時が何度もある。でもひとつだけ君に教えてもらったことがある。それを胸に刻み込み、僕は今確信に満ちた日々を送っている。

 僕が本当に負けないでいられる男になれたら、もう1度君に会いに行くつもりだ。僕は君から遠い所にいるわけじゃない。心の荒野で指針を失くしていただけなんだ。だから今も、君のてのひらは僕の胸の上にある。

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(c)1992 Takuji Oyama