君は僕に“勝って”とは言わないでくれた。ただ一言“負けないで”と言ってくれた。それがとても嬉しかった。その時の君の表情や声を、はっきりと憶えている。低い声だった。暖かい目だった。僕の胸に添えられた君のてのひらから溢れでる勇気が、僕の心を満たしていった。僕は今、旅の途上でそんな君のことを思い出している。 遠い昔、僕がこの街に降り立った時、僕は自分の過去を小さなバッグひとつにまとめてきた。そこにはいくつかのゲームでの勝利の印の王冠が入っていた。それまでに僕が手にしたものの中で、必要と思われるものはそれだけしかなかった。過去などいらなかった。僕は自分が勝ち続ける男だと信じていたから。大抵の勝負で僕は勝ちをおさめた。なぜなら、僕は勝負を前にして、勝算がある時は進み、そうでない時はその勝負を避けて通ったからだ。僕はどうしようもなく身勝手で、自分本位な男だった。そんな自分を誇らしくも思うような、つまらない男だった。 負けることなど無意味だと僕はずっと信じていた。勝ち続けなければいけないと。だが何のために? 誰のために? 疲れ果てて座りこんだ僕の口から漏れたそんな疑問に、君はただほほえみ、僕の胸に手を置いてくれた。 長い長い時間が過ぎ、僕は負けることにも意味があることを初めて知った。勝つのは難しい。なぜなら勝つためには何かの対象がいる。誰かや何かに勝とうとする。どこまで行ってもそれは終わらない。人は決して勝つことはない。でも、負けないでいることならできる。自分にさえ負けなければ、人は決して負けないんだ。 僕が本当に負けないでいられる男になれたら、もう1度君に会いに行くつもりだ。僕は君から遠い所にいるわけじゃない。心の荒野で指針を失くしていただけなんだ。だから今も、君のてのひらは僕の胸の上にある。
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