後ろ手に閉めたドア。君の泣き声を聞きたくなかったから。冷たい外気が頬の上を流れ、僕の足元をすくうように街のつぶやきが聞こえ始める。ドアの閉まる金属的な音が、暗い廊下に響き渡る。僕と君の空間をまっぷたつに裂くように、それは低く長く残響する。
居場所を失くした僕の心は、体を離れてさまよいだす。非常階段を駆けおり、駐車場を抜け、国道を渡り、繁華街をつっ切り、行き交う男達の肩にぶつかり、戸惑う女達の足元をかすめ。極彩色の光が僕を取り巻く。
目が見えない。違う、見えないんじゃない。明るすぎて目がくらんだだけだ。この通りの美しさは僕の心の虚しさにそっくりだ。僕は走る。走らなければ、地の底に落ちるか空へ吹き飛ばされてしまいそうな気がして。
何度愛していると言えば、君に伝わるのだろう。何度抱きしめれば、君は安心するのだろう。話さなくても分かると思っていた。僕らはそれだけの時間をかけて愛を築きあげたはずだった。僕らは愛のすべてを手に入れたと思っていた。愛が壊れるなんて思いもしなかった。お互いが必要なはずなのに、お互いをしりぞけてしまうなんて考えてもみなかった。愛が2人を結びつけずに、2人をふり解くなんて。僕には愛が分からない。
――愛していると言われるよりも、愛していたと言われる方が実感がわく。初めて、あなたにも私のための愛があったことを感じられる――
笑い声が聞こえる。何人もの男や女が今を生きるために必死に笑う声が。クラクション。重なり合う音楽。響き渡る足音。僕らはこの世界でみんな弱くて脆い存在だ。誰もが温められるのを待っている。人に温められるのが嫌でも、結局は自分の両腕で自分を抱きしめて温める。
――2番目や3番目に欲しいものをいくら手に入れたとしても、心は満たされないものなのよ――
「君の希望と僕の野望は違うものだ。似てはいるけれど、全然違うんだ」
分かってる。僕は少しも男らしくない。せめて君の思い出を取り戻したい。せめて僕の願いを叶えたい。でも本当に僕の願いと君の思い出を取り戻したら、そこには別れしかないんだ。そのふたつは全然違うものだから。
泣き声が聞こえる。街角のショーウィンドウの影から。薄暗いバーのカウンターから。電気を消した窓辺のカーテンの奥から。もう泣かないと君は言った。何度も言った。僕がそれを破らせた。
僕の心は行き場を失い、立ちつくす。帰らなければ。まだ間に合う。きっと間に合う。クラクション。重なり合う音楽。響き渡る足音。ふいに遠ざかる。僕は目を開ける。
閉まったドアの残響が廊下の突き当たりで反射し、僕の足元の辺りに低く漂っている。冷たいドアの感触が、寄りかかった背中に戻る。
分かってる。もう一度このドアを開けたところで、2人の心のドアは開かれないだろうということを。このドアの中にあるものは、僕と彼女が2人で作り上げたもの。それは、このドアを開ける時、崩壊する。
ごめんよ。君を傷つけてごめんよ。君を愛せなくてごめんよ。愛を終わらせてごめんよ。僕はこのドアを開けれない。
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