さよなら恋人
 | 1. 花を育てたことがあるかい | 2 . 夜を行く | 3 . そして僕は部屋を出た | 4 . さよなら恋人 |
 | 5 . 前夜 | 6 . 天使の歌う朝 | 7 . 負けないで | 8 . 孤独のゲーム | 9 . 祈り |


 東の空が少しずつ紫に変わっていく。
 太陽はこの季節、通りの四つ角にある古い洋館の屋根の上の風見鶏をかすめながら昇っていく。初めて彼女と一緒にこの窓から夜明けを見たのも、ちょうどこんな季節だった。窓を開け、少し肌寒い空気を感じながら裸のまま体を寄せあい、2人で夜明けを待っていた。少し錆びた風見鶏は、キイキイと音をたてながら朝の風に寄りそっていた。まだベッドの位置も決まらない部屋の中は、2人の荷物が雑然と並び、薄く埃が舞っていた……。
 僕は服を着て、小さなバッグのファスナーを閉める。彼女はまだベッドの中で薄く寝息をたてている。その頬に涙の跡がある。僕は足音をたてないようにキッチンへ行き、コップに水を汲んだ。昨日の夜のグラスがふたつ、置きっぱなしになっている。僕は水を飲みながらふり返り、薄暗い部屋の中を見渡す。壁にかけたキャンバス、ダイニングテーブルの小さな傷、玄関に置いた古い花瓶。今はみんな静かに佇み、朝の光を待っている。僕はコップを持ったまま窓辺に向かう。どこからかトラックのバックする警笛の音が聞こえてくる。この窓から、僕らは季節の変わり行く様を見届けてきた。

 カーテンを開けて水滴で曇った窓を開けるまで、雪が降っているのに気づかなかった。彼女は大声で僕を呼び、まるで自分の手柄のように僕に雪を見せた。僕らは両手を差しだし、雪を受け止めようとした。通りでは子供達が奇声を上げ、車のチェーンの音が、見たこともないサンタクロースの橇の音のように思えた。
 暖かい日差しを受ける窓辺に、彼女はいくつかの鉢植えを置いた。通りの向かい側の窓にも花が咲き始めていた。彼女がしばらく留守にした間に、水をあげ過ぎて鉢植えのひとつを枯らしてしまった。彼女のとんがった口はなかなか元に戻らなかった。2人で出かけた帰り道、僕らは窓辺の下まで来て、その鉢植えを見上げた。
 彼女の日傘が部屋の中でクルクル回り始めると、夏がやって来た。天体望遠鏡が窓辺にセットされ、夏の間だけ僕らは科学者でロマンチストになった。花火の夜はビールを用意したけれど、窓から見えずに、僕らは交替で窓から乗りだして首を延ばした。
 夜の空気が少しずつ冷たくなっていく頃、僕らは2人で窓から外を見ることもなくなった。お互いの背中が遠くに感じ、僕らは理解し合っている時よりも何倍もの言葉を交わした。時に激しく僕らは言い合い、そして押し黙った。窓は閉ざされ、僕らは季節も失った。哀しみも憎しみも少しずつ色褪せ、僕らは何かが終わったことを知った。

 僕はグラスをベッドサイドのテーブルに静かに置いた。彼女が小さく寝返りを打つ。僕は立ちあがり、窓を開けた。薄い雲の中から赤い太陽が顔を出している。窓辺に置いてある鉢植えのひとつに、小さな黄色の花が咲いていた。本当なら夏に咲く花だ。風が吹いて、カーテンをたなびかせた。僕はふり返り、彼女を見おろす。
 もう何も話すことはない。話さなければならないことは全部話してしまった。あとはもう別れを告げるだけだ。そろそろ出発の時間が来る。愚かなのはいつも僕だ。分かってはいても、そうせずにはいられない。彼女が次にどんな窓からどんな景色を見るのか、どんな人とどんな恋をするのか、僕には知るよしもない。そして僕が何を追いかけるためにここを出るのか、彼女にはきっと分からないだろう。僕にもはっきりとは分からない。ひとつだけ分かっていることは、僕はきっと窓の外側の人間になるということだ。
 彼女が目を覚まそうとしている。僕はバッグを手に持ち、ベッドの脇に座る。彼女にさよならを言うために。

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(c)1992 Takuji Oyama