その朝、僕は天使を見たんだ。
本当だよ。いや、正確に言えば声を聞いただけかもしれないな。
僕は悩んでいたんだ。夜の間中、酒に身を任せて街をさまよっていた。どこかに答が転がってはいないかと思いながら。せめてヒントだけでも落ちていないかと路上に目を落として。実のところうなだれていただけかもしれない。
その夜の酒は、グラスの底の方から僕に陽気さを教えようとしてくれているみたいだった。知りあったばかりの女は、僕の眉間のしわをあざ笑い、軽く腰をひねって僕を混乱させた。ネオンサインは僕の心を貫き、とどめを刺そうとさえしていた。そして夜は……夜は素敵だった。何よりも僕を誘惑した。ここにさえいれば、もう何も恐くないような気になった。僕は幻の祭壇を昇り、幻の玉座に飛び乗り、洞窟のような瞳の群れを見おろして大声で宣言した。
「夜は誰にでも王になるチャンスを与える。今夜の王様は俺だ。なぜなら、これから俺が世界中がひっくり返るほど笑えるジョークを言うからさ!」
そして僕は世界中をひっくり返した。その世界は僕の視界の果てで終わっていたが、僕はそれに気づいていなかった。世界は僕を祭りあげ、僕は有頂天で新しいジョークを飛ばした。しもべ達はそのジョークが気に入ったようだった。僕に王冠をかぶせ、黄金のマントを与えた。朝は永遠に来ないように思えた。その時誰もが心の片隅で朝を恐れていた。生き急ぐ夜の虫のように、退廃的なダンスで夜を徘徊し続けた。
切り裂くようなカラスの泣き声。
そいつは僕の真横で、ビニール袋の中の朝食を漁っている。僕は目を開けた。王冠はポリバケツに変わり、魔法の杖は飲み干した酒のビンになっていた。僕は立ちあがって辺りを見回す。信号はまだ赤と黄色の点滅をくり返している。空は紫から青に変わろうとしているが、街角やショーウィンドウの片隅には、まだ夜がくすぶっている。服を払い歩きだす。
静かだ。空気は鼻をツンとさせるほど乾いている。僕は口笛を吹いた。かすれた音が、すぼめた唇からかすかに漏れた。それにかぶさるようにどこからか聞こてくるものがある。初めはクラクションの音だと思った。でも何かが僕を引き止めたような気がして、僕は足を止めた。かすかに誰かの笑い声が聞こえる。昨日の夜の残響が耳からこぼれ落ちたような感じがした。
ふいに、僕の背中が暖かい光に包まれた。僕はふり返る。四車線の道路の向こうにそびえるビルの屋上から、太陽が顔を出したところだった。僕は目が痛くなるのも構わずそれを見あげる。目の前が真っ白になるほどの鋭い光のシャワーの真ん中で、一瞬翼がひるがえるのが見えた。メロディが響いた。僕は無意識にそれを口笛に吹いた。忘れないように。目が痛くなって思わず閉じる。にじんだ網膜の中で天使が笑っていた。僕は慌てて目を開いた。
そこにはいつもと同じ都市の朝の風景が広がっているだけだった。僕はもう一度口笛を吹いた。メロディは残っていた。
ふと見ると、アスファルトの上に真っ白な羽根が落ちている。僕はそれを拾って胸のポケットに刺し、天使がくれたメロディを吹きながら歩きだした。
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