I'm So Down
 | 1 . I'm Walkin' Down The Street | 2 . ケイヤク | 3 . もうすぐ | 4 . I'm So Down |
 
| 5 . The Fool On The Build' | 6 . 英雄株式会社 | 7 . パッシング | 8 . 友情の証し |
 
| 9 . I'm Walkin' Down The Street -Refrain |


binetsu88 photo 広場の真ん中に記念碑が建っている。この街出身の男が、どこかの国でどえらいことをしでかした記念に建てられたものらしい。その記念碑のてっぺんに取りつけられている時計が、今朝出勤の途中で見上げると止まっていた。戦争の前からずっと動いていたという話だ。広場の清掃員があきらめたような顔でつっ立って、そいつを見上げていたっけ。
 仕事場は相変わらず暗くて湿っぽい。今日は水曜日だから多分残業だろう。昨日の夜水溜まりをふんづけちまったおかげで、運動靴が歩くたびにグチャグチャ嫌な音をたてやがる。手だけ動かしながら何か楽しいことを考えようとするんだが、今日は何だかやけにけだるい。
 主任が急ぎ足でせかせか歩いてきた。俺の仕事具合をチラリと見て、いつもの甲高い声で言う。
「今日は何曜日だ?」
「水曜日」
 俺はぶっきらぼうに答えた。
「そうか。今日は少し残ってもらうからな」
 何言ってんだい、毎週のことじゃないか。
「ちゃんとやれよ」
 分かってるよ。ここじゃいつだってあんたの方が正しいんだ。あんたが雨が降るって言えば、必ず土砂降りになる。そして濡れるのは俺の方ってわけだ。上等だよ。
 俺はノルマ達成に向かってノロノロ進みながら、この街に住む人間達のことを考え始めた。

 俺のアパートの向かい側にひとりの女の子が住んでいる。酔っ払いの兄貴と一緒だ。俺はその子が歩いているのを見たことがない。きっと足が悪くて歩けないんだ。その子はいつも窓際の同じ場所に座って、段ボール箱一杯にカーネーションを造っている。だけどたまに兄貴が帰ってきて、その稼ぎを酒に代える。その子は哀しむことも忘れたような顔で、また花を造り始める。ずっと俯いているせいで、その子の首は肩にめり込んでいる。
 俺のすぐ下に住んでいる男は、地下鉄の車掌をしている。毎日電車のケツにつかまって“出発進行!”って叫び、笛を吹く。もう軽く5千回はくり返しただろう。アパートに帰ると、男は何もせず、どこへも出発しない。きっと部屋の中で“シュッパツ”の意味を考えているんだろう。
 隣に住む30になる男は、夕方になるとバイオリンのケースを抱えて出かける。そして真夜中、酔っ払い、泣きながら帰ってくる。その男と俺は少し知り合いなんだが、男は俺のことをてんで子供扱いして、会うと必ずこう言う。
「坊や、少しはギターがうまくなったかい?」
 俺は学校でいろんなことを嫌と言うほど教わって、9年も義務を果たしてきたが、絵葉書すらろくに書けない。
 この街にはろくなやつは住んじゃいない。気に入った答が返ってこないって理由で、世論調査班はいつもこの街を避ける。

 気が遠くなるほどの時間がたって、ようやく仕事が終わった。帰り際に主任に会うと、嫌味をふたつ言われた。何か言い返してやろうかと思ったが、馬鹿らしくなってやめた。口数が多いとろくなことはない。口をつぐんで損することはない。
 週に1度はこんな風に嫌な気分になる。こんな時は飲みに行くに限る。俺は3丁目まで歩いていつもの店に向かった。ウェイターがひとり、入り口の所にドア・マンよろしく立っていた。俺は軽くなった口を開いた。
「調子はどうだい? 飲みにきたぜ」
「ここは楽しみたいと思うやつが来る所さ。楽しんでいきな。今夜はシュガー・マンも来てるぜ」
 俺は店のドアを押した。いつもとまったく同じ具合に蝶番がきしんだ。
 ここは綺麗じゃないが、結構いい感じの店だ。アップライトのオンボロピアノが置いてある小さなステージ、壁には何も描かれないまま黄色くなったキャンバス、カウンターの隅にはどういうつもりか旧約聖書とペントハウス、安楽椅子がいつつと安楽でない椅子がふたつ。俺はカウンターに座るとジンを頼んだ。グラスをさし出したバーテンダーが素っ気なく言った。
「どうした? 腹の立つことでもあったのか?」
「腹はここ10年立ちっぱなしだ。シュガー・マンが来てるんだって?」
「ああ、ほらちょうど始まるところだ」
 シュガー・マンってのは、スラングでアル中だかヤク中って意味で、月に1度くらいこの店でピアノを弾いて歌う男のことだ。
 不精髭によれよれの背広、片手にグラスを持って現れた男は、ピアノに座るといい加減に鍵盤を叩きだし、そのうちいつの間にか歌い始めた。こいつの声は酔っ払った腹に染み渡るようなしわがれ声だ。店の客達はそれほど真剣に聞いているわけじゃないが、だんだん口数が少なくなる。シュガー・マンは40分程歌うと、エンディングも決めずにあっさりとピアノから離れ、カウンターへやって来た。誰も拍手しない。だけどここではそれが普通なんだ。俺はゆったりとした気分でシュガー・マンに話しかけた。
「いいステージだったよ」
「嘘つけ。だけどそう思うんだったら、1杯おごれよ」
 シュガー・マンは俺の頼んだグラスを受け取って半分ほど一気に飲むと、ガサゴソポケットをあさり、くしゃくしゃの煙草を取りだしながら言った。
「1曲歌ったらどうだい?」
「今夜はいまいちDOWNなんだよ」
「そうかい。そりゃ残念だな」
 こいつとの話はすぐに途切れる。俺はまたグラスをもてあそび、時間を転がし始めた。
 客のひとりがグラス片手に、上機嫌でテーブルを回りながら叫んでいる。
「ヘイ、握手をしようぜ!」
 俺はその男が不機嫌な客にぶつかって殴られるような気がした。もしかしたらあいつもそれを待っているのかもしれない。人間の優しさを賭けた危険なゲームだ。
「おい、兄弟」
 シュガー・マンが俺の肩に手を置いて言った。
「世の中には2種類の人間がいるんだ。何かをしでかすやつ、そしてそいつを見て驚くやつさ」
 俺は黙って見返した。シュガー・マンはニコニコ笑って俺にグラスを上げた。俺も少し笑い、ゆっくり立ち上がってピアノに向かって歩きだした。
 そうだとも。まだやっと2ラウンドが始まったばかりじゃないか。DOWNするには早すぎる。
 俺はせめて今夜のうちに何か1曲歌うんだと、ぼんやり決心を固めたところだった。

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(c)1984 Takuji Oyama