まだ俺がほんの小さなガキの時分、この町はまだ町と呼べるような代物じゃなかった。夜10時を回ると通りは寝静まり、起きているのはおまわりと泥棒くらいのものだった。
俺が生まれる3年くらい前に、おやじとおふくろはよその土地からここへ流れつき、住みついた。その頃おやじはタクシーの運転手で、おふくろは家で縫い物をする毎日だった。
町の外れを大きな河がゆったりと流れていた。河の向こうはいつもスモッグが薄くたちこめ、その中に大きな街がそびえ立っていた。
月に1度くらい、おやじは河を渡る客を乗せ、はるか河上にある橋を渡った。そしてその夜は酒を飲み、おふくろを殴った。おやじが酔いつぶれて寝てしまうと、おふくろはいつも窓を開け、河の向こうに小さく光る街の灯りを見つめた。俺達家族は、それからこの町のやつらみんなが、いつも河の向こうを見つめながら暮らしていた。
河のほとりは格好の遊び場だった。隣の家に住むふたつ年下の女の子が、いつも俺の後ろをついて回った。
「ねえ、石を投げて向こう岸まで届く?」
「届かないよ」
「やってみて。ねえ、やってみてよ」
俺の投げる石は、ほんの数10メートル先に小さな波紋を作るだけだった。
夕方になり遊び疲れると、俺達は水辺に並んで座り、向こう岸でひとつずつ灯っていく明かりを数えた。
「ひとおつ、ふたあつ、みっつ……」
小さな指を上げて明かりを数えるの女の子の横顔を、俺はぼんやり見ていた。
「ここのつ、とお。……ねえ、その次はなんだっけ。とおの次は?」
17になった時、俺は学校のワル共の仲間に入り、家にもあまり帰らなくなっていた。この町の狭すぎるメインストリートじゃ、嫌でも肩がぶつかる。俺はまぶたを紫に腫らしては、次の日仲間にその武勇伝を聞かせた。
その頃、この町と向こうの街をつなぐ橋が架けられることに決まり、町全体がそわそわし始めた。俺達の仲間も、車を買いこんで橋を渡る話に熱中し、おやじですら中古車屋の前をうろつくようになった。
ある日、1人でぶらついている時、以前隣に住んでいた女の子に偶然出会った。
「元気?」
「ああ」
「橋ができるのよ」
「知ってる」
ひさしぶりの女の子は、もう女の子と言うにはまぶしすぎ、俺はぶっきらぼうにそう答えた。
「ねえ。昔のこと、憶えてる?」
「忘れちまったよ」
英語の教師が黒板にこう書きながら喋ってる。
「Stone's cast――これは、石を投げて届く距離、つまり目と鼻の先という意味です。距離にすると。まあ45メートルから140メートルというところですね」
18の夏、俺達の橋が完成した。蜘蛛の巣みたいなその橋は、俺達の未来の象徴になった。
“いつかあの橋を渡って、向こうで成功して、向こうに住むんだ”
これが俺達の新しい口癖になった。でもそのうち俺達にも分かってきた。向こうから橋を渡ってくるのは長距離トラックばかりで俺達の町を素通りし、こっちから橋を渡った車は、必ず戻ってくるってことが。
ある晩、俺は彼女を車に乗せて走っていた。偶然再会して以来、俺のオンボロ車の助手席は彼女の指定席になっていた。俺は昔2人で遊んでいた水辺の近くの道路沿いに車を停めた。
彼女がポツンとつぶやいた。
「橋を渡らないの?」
俺は黙って黒い水面を見つめていた。今なら石を投げても、もっと遠くまで飛ぶだろうな。
「ねえ。私を向こうへ連れてって。私を連れて逃げて」
俺は何も言えなかった。次の朝、彼女は1人で河を渡り、そして帰ってこなかった。
俺達をあざ笑うように向こう岸の明かりの数は増えていき、ビルは高くなっていった。この町は昔と少しも変わらない。
俺が彼女と2度目の再会をしたのは、それから9年後のことだった。
俺は自分にふさわしい仕事を見つけ、この町で暮らしていた。そして週末になると車に乗って橋を渡り、同じ数だけ戻った。
その週末、俺はいつものように橋を渡り、ネオンと酒にもみくちゃにされながら通りを歩いていた。交差点にさしかかった時、後ろからのお決まりの誘い声に振り返ると、そこに、驚いた顔の彼女が立っていた。
すすけたカーテンを開け、俺達は夜明けの街を眺めている。
「昔のこと、憶えてるか?」
「忘れちゃったわ」
ビルとビルの間から、小さな明かりを灯した俺達の町が見える。彼女がその明かりを数える。
「ひとおつ、ふたあつ……」
俺は黙ってその声を聞く。
「ここのつ、とお。……ねえ、とおの次は何?」
今夜俺は、昔女の子と遊んだ水辺の近くに車を停め、向こう岸に向かってパッシングを続ける。まるでそれが何かの合図みたいに。
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